3日続けて会社へ泊まることは避けられた。とはいえ、もう0時を回っている。そっくり同じ外観のマンションが建ち並ぶ中を、私はゆっくりと歩いていく。見上げればあちこちの窓から明かりが漏れているが、辺りに人の気配はない。酷く太った野良猫が一匹、少し先を横切って暗がりへ消える。頭上のどこからか子供の笑い声が聞こえ、すぐに消えた。
4号棟、6号棟、建物の側面にある数字を数えていく。8号棟の前にある公園のベンチに、高校生らしい男の子が二人で座っていた。二人は黙って、私を見ている。
10号棟、12号棟、14号棟。私はまっすぐに延びる道を逸れると、14号棟へ歩み寄った。その最上階、8階に住んでいるのだ。
胸ポケットに入れている携帯が震えた。私は取り出して通話ボタンを押す。
「もしもし」
「あ、もしもし?」妻だ。「いまどこ?」
私は14号棟1階の外階段に差し掛かる。
「いま1階」
言いながらも私は階段を登りはじめる。
「おつかれさま」
「ああ、うん。帰ってこれてよかった」
「階段登ってる」
「いま…2階」
「エスカレーター使えばいいのに」
「エコ気取りで」
「エコ?」
「そう。エコ。いま3階。あと、エレベーターな」
「あれ? エレベーターって言ったよね」
「いや、エスカ…あ、4階」
「息上がってるよ」
「大丈夫だって」
言った直後に私は大きく息を吐く。電話越しに妻の笑い声が聞こえた。
「息止めてるじゃん」
「いや、止めて、ないよ。あ、5か、あれ?6階だ」
私は足を止める。確かに6階だ。いつのまに5階を過ぎたんだろうか。
「じゃ、待ってるから」
「ちょっと待って」
私は再び階段を上がりつつ言う。
「どうしたの?」
「そういえば、夕飯なに?」
「カレーだけど」
「お前ほんとカレー好きだな」
「な?」
今度は私が笑う。
「な、って」
笑っている間に7階を過ぎ、8階に着く。
「お。8階に着いた」
「鍵は開けてあるから」
私は廊下へ入る。810、809、808。廊下に足音が響く。808号室の換気扇から、石けんとお湯の匂いが漂っている。807、806。私は足を止めた。台所の換気扇がカレーの香りを吐き出している。
「ただいま」
私は電話に向かって言いつつドアを開け、そのまま靴を脱いで玄関を上がった。その先すぐが台所だ。見知らぬ女性がTシャツにパジャマのズボンを履いて、誰かと電話している。女性は私を見て動きを止めた。私も停止する。見知らぬ部屋だ。
「あれ? どうしたの?」
受話器から妻の声。奥の部屋から中年の男性が顔を出した。誰だろうか。
「ああ。いや」
混乱して妻にそう答えつつ、自分でも驚くほど素早く玄関へ戻り靴を履いて外へ出る。部屋の番号は間違いなく806だ。棟番号を間違えたんだろうか。
「いや、それがさあ」
私は後ろからさっきの人たちが追ってこないか気にしつつ、廊下を出て元の階段へ戻った。8階建てのはずなのに、なぜか階段がまだ上へ伸びている。私は階段と廊下を隔てるドアに目を遣った。8階と書いてある。私はもう一度上へ延びる階段を見てから、下へ降りていった。
「いや、部屋間違えたみたいでさ」
さも面白い話に聞こえるよう、軽い口調で言う
「ホント?」
「本当だって。いや、驚いた」
私は駆け足で階段を下りる。息が弾む。すぐ1階に着いた。私はマンションから離れ、棟番号を確認しようとする。
電話の向こうで、ドアの開く音が聞こえた。「ただいま」誰か男の声が。 「あ、お帰り。なんだもー。ふざけな」 そこで電話が切れた。 私は顔を上げ、自分が降りてきたマンションの棟番号を確認した。間違いなく14号棟だ。 ワケが分からないまま電話を掛け直そうとして、着信履歴を呼び出す。その一番上にあるのは、見知らぬ番号だった。