男はマセドニア公国領の首都、パッゼウにある聖少女通りで歯医者を営んでいた。聖少女通りは夜ともなれば道の左右に娼婦や男娼が立ち並ぶ。あたかも数ブロック離れた陽光通りが左右に並ぶ背の高い建物のせいで昼間でさえも薄暗く、夜ともなれば飲み屋や露天商や、その他終夜営業の店明かりで煌々と照らし出されるようなもので、その名には一面の真実と一面の虚実とが含まれている。つまるところ、人によっては体を売る人々に聖性を見出し、娼婦を聖少女と、男娼を聖少年と見為すこともあるのだから。
男はそんな聖なる少年少女がたむろする通りの一角にある、3階建ての建物の2階と3階を借りていた。2階は診療所。3階は居室である。岩材と煉瓦の混成からなる建物は堅牢だが酷く古びていて、スレート葺きの高屋根は年に数度、その表面を覆う石板の一枚を通りへ向かって滑り落とす。地面にぶつかった石板の割れる音は街娼たちやその客たちを驚かせるが、この通りへ出入りして長い者たちは雪国で屋根から雪が滑落した程度の無関心しか示さない。
午後の診察を終えた男は書斎に居た。部屋というよりも四角い縦坑の側面に扉を設けたような場所で、扉がある面以外の三方は天井まで伸びる棚が据え付けられている。棚は書籍や標本、歯科見本、男の手ずからになるノート類で隙間なく埋められ、ちょうど扉の真正面に位置する部分だけが穴を開けられ、その奥に小さな窓が見えている。
その窓の前に巨大な机が置かれている。机は男がこの建物を借りたときから存在した。あまりにも大きいので、仮にパーツを分けて持ち込み室内で組み立てたにしても、一枚板の天板を入り口から運び込むのは不可能なように見えた。 机と窓の間にはこれも重厚な椅子。背もたれまで総ビロード張りで詰め物がされている。とはいえ、長年の使用でちょうど膝裏の辺りの箇所が擦り切れ、パッチが当てられている。
男は老人とは呼べないが、若者と言うには歳を取っている。背が高く痩せていて、白髪の交ざり始めた髪は2週間に一度、床屋で整えさせている。一般的な同世代の男と違って、肌にはあばたもアザもない。しわが深まる目元の中央で、緑色の瞳が輝いていた。
今、一つの棚の前でしゃがみ込み、慎重に一冊の本を取り出そうとしていた。気密性が高いせいか、棚の上の方と下の方の本は湿気で膨らみ、癒着し、注意深く取り出さないと背表紙だけは外れて手の中に、という事態になりかねない。
「先生、お客様です」
ドアの外から助手兼家政婦のウェンナが聞こえた。このサント・フィレ歯科医院の客には、通りにいる街娼たちも多い。彼ら彼女らはその「仕事」のために(余裕があれば)体の質へ気を配る必要があり、中でも歯はキスやその他もっと多くの場面にアクセントを加える大切な要素となっている。そして、近在でまともな歯医者といえばここしかない。おまけにここは歯磨き粉や、噛んでいるだけで汚れを落とし口臭を隠してくれる肉桂の皮なども売っている。そのためなかなか客が捕まらないときや、ただ単純に歯や歯茎の痛みが耐え難いときなど、診療時間を気にせずやって来るのだった。
「診療時間外に来る奴は追い返せといつも--」
言い掛けて男は言葉を飲み込んだ。ウェンナは「お客様」と言ったのだ。「患者」ではない。男の元へ客が来ることなど滅多になく、そのせいで勘違いしたのだ。
「この部屋へお通ししろ」
ドアの前の気配から、ウェンナが玄関へ引き返したのが解った。男は苦心して半分ほど抜き出した本を見遣って立ち上がり、机へ歩き寄ると椅子に腰を下ろして待った。
程なくして、誰かがドアをノックした。
「どうぞ」
声を掛けるとドアが開き、コートにシルクハットという出で立ちの若い紳士が入ってきた。
「始めまして」男はシルクハットを脱ぐと片手に持ち、深く頭を下げた。「わたくし」
「ああ、宮廷から来た?」
男の言葉に紳士は驚いた。
「どうしてお判りに?」
男は自分の首周りへぞんざいに指を這わせて見せた。
「首にぐるりと慢性のあせもができている。普段はあの馬鹿げたエリ飾りを巻いて居るんでしょう。あんな宮廷衣装で出歩くわけにはいかない」
男は自分の首を見下ろしたが、もちろん自分で自分の首をそうやって見ることはできない。
「で、なんの用です?」
男は紳士に尋ねながら、やや尖り気味のアゴを撫でた。不安を感じているときのクセだ。
「そうでした。申し遅れましたが、わたくし、ヴィンチェルノ二世公爵陛下にお仕えしております--」
男は紳士の長々しい前口上を聞き流しながら考えた。ヴィンチェルノ二世と言えば、アイアスマ公国連合の中でも上位の実力者で、ここマセドニア公国領を治めている。
問題は公爵だかその関係者だかが自分になんの用なのか、だ。そもそも、なぜ自分を見付けられたのだろうか。男の前口上はいよいよ熱心さの度合いを増し、まだまだ本題に入る気配がない。
男の師匠であるジョアン・リヒャルトマンは諸国を旅する放浪の歯科医だった。史上最高の名歯科医とされ、王侯貴族や豪商といった上流階級の人間ばかりを専門にしていた。勅許状や免状、通行手形が鞄の中で束になり、どこへ行っても歓待された。
男は孤児だった。まだ幼い頃、ジョアンの身の回りの世話をするために拾われたのだった。やがてジョアンは男の手先の器用さと物覚えの良さに目を留め、世話係だけでなく自分の弟子とすることに決めた。
二人は薬剤と治療器具、それに僅かばかりの身の回りの品だけを持って、国から国へ旅して暮らした。だいたいどこでも滞在中の生活必需品や衣服は提供されたので、私物を持ち歩く必要がなかったのだ。また、持ち歩きにくい物や書籍のたぐいは、定期的に巡回する患者たちの居城に保管されていた。
上流階級の人々は糖や脂肪の多い食事をしているせいで歯の病気を抱えがちだった。それは自然治癒せず、痛みや不眠など様々な害をもたらす。
ジョアンと男が特別なもてなしを受けていたのは、優れた治療を施すためだけではない。信用を裏切らないということもあったし、上流階級の好むような振る舞いを身に付けていたこともある。特に信用を裏切らないというのは重要で、暗殺の可能性に怯える人々の口を直に触る歯科医という職業は、よほど信頼されなければ務まらない。特に放浪生活を続け、多くの宮廷へ出入りしているともなればなおさらだ。それに何より、他の歯科医とは圧倒的に違う技術が二人にはあった。
ジョアンが亡くなると、当然のように男がその跡を継いだ。男はそれまでと変わらず多くの貴族や王、富裕者たちのところを回って診察を続けた。
そんな男の生活が転機を迎えたのは、とある山村に滞在したときのこと。大雨で谷川が氾濫し、そこで足止めを受けたのだ。
僻地の農村に滞在することなど、初めての体験だった。男は村長の家で一番いい部屋に案内され、手厚いもてなしを受けた。とはいえそれは、男が患者たちの居城で受けるもてなしに比べればはるかに貧相で粗野だった。
滞在三日目のこと。男は村長の頼みで、従兄弟だという農夫と会った。歯痛に悩まされる農夫は男が歯医者だと知って、治療を頼んできたのだ。
粗末とはいえ心尽くしの扱いを受けていた男は、この頼みを引き受けた。場所は村長の家の客間。宮廷で最も身分の低い下働きさえ着ないような服を身につけた農夫は、男に言われて口を大きく開けた。
農夫の口中に拡がる光景を目にして、歯医者は衝撃を受けた。硬く、ときには食べられないようなものまで無理に食べてきたせいか、その歯は古城の防壁を思わせるほど大きく、分厚く発達していた。表面は摩耗してキメが細かく、それでいて古ぶるしい象牙を思わせる曇った乳白色。ふっくらと盛り上がった歯の腹や、深く落ちくぼんだ歯上の偉容は村を取り巻く渓谷が凝縮したかのようだった。そんな歯を支える歯茎は肉厚でやや灰色を帯びており、「艶やかな鴇色の大地」とでも呼びたくなるようなものだった。
農夫を悩ませていた歯痛の原因自体は、ありふれた虫歯だった。治療はすぐに済んだ。麻酔をして神経を抜いて、歯を削って詰め物をする。その行為も男にはまるで、山を削り大地を穿つように感じられた。
治療を終えると男は、農夫の傍らで心配そうに付き添っていた村長へ向かって告げた。他に歯が悪い村人がいれば、誰でも遠慮なく連れてくるように。しかも今すぐ、と。村長の目には、男の行為が慈悲深く寛大なものとしてに映ったに違いない。しかし男からすればそれは、驚異と奇跡をもっと味わいたいだけのことだった。
その後に起こった体験は、男の期待を裏切るどころか超えるものだった。最初に治療した農夫の歯が特別なものではなく、むしろこうした人々の中では並でしかないことを発見したからだ。男は生まれて初めて歯科治療に夢中になり、人々が口の中へ慎み深く隠し持っていた世界に魅了され、最後の一人の治療を終えたときは残念でならなかった。
足止めが終わると男は元の生活に戻ったが、それは今まで以上に味気なく退屈なものとなった。上流階級の人々は柔らかいもの、歯触り口当たりのいいものばかりを食べ、本当に冷たいものや熱いもの(たとえば真冬の谷川から汲んだ水や炉端の鍋からよそったばかりの濃いシチュー)に歯を晒したこともなく、口内は手入れが行き届いている。それはあの、荒々しく粗野でこの上なく芳醇な、貧しい人々の口内に比べ何とも貧相で、患う病気も手応えのないものばかりだった。
だんだん男は、移動の途中で田舎の村々へ滞在するようになった。数日足を止め、村人の治療をするのだ。どこでも最初と同じ感動が男を待っていた。口の中の眺めだけに限らない。まともに口内の手入れなどせず劣悪な衛生状態にある彼らには、驚くほど多様な症例があった。極限の施療が求められることもしばしばであり、口腔外科を実地に施す機会もあった。それは男の有り余る才能と知識とを最大限に発揮できる場であり、充実感は大きかった。こうした経験を重ねるにつれ上流階級の患者への施療はますます精彩を欠き、耐え難いものとなっていった。
ジョアンの遺産と自らの稼いだ金銭はすべて銀行に預けてあった。一部は投資信託に回し、それなりの利益があった。その総額が理解できないほどの数字になったとき、男は上流階級に対して消息を絶った。
それから男は治療をしながら僻地僻村を旅して暮らした。ときどきは都市住民の歯も診た。それもまた興味深い経験だった。
資産は孫子の代まで豪奢に暮らせるほどあったが、田舎では貨幣など意味を持たなかった。基本は物や労働力、技能の交換であり、男はどこへ行ってもその村が用意できる最大限に最高の食べ物や居室、衣類を与えられた。そしてときには洗練されていないものの、それゆえに情感豊かで野手あふれる若い娘があてがわれることもあった。
こうした暮らしを続けて辿り着いたのがパッゼウだった。都市部は田舎ほど、男のような人間が目立たずにいられる。おまけに首都の西は山岳地帯で東は海へ出ることができ、南と北にはそれぞれ森林地帯が広がっている点も魅力だった。そのどこにでも、馬車で1日も行けば着くことができた。男は聖少女通りの建物を借りて開業し、数ヶ月に一度、地方へ施療旅行へ出掛ける以外はそこで暮らしていた。かつての患者たちの間で、自分は死んだことになっていると思っていた。紳士が訪れるまでは。
内密に相談したいことがあるので、今から王宮に来て欲しい。男の仰々しい話をまとめると、こういうことだった。何を相談したいのか、どうして自分の存在を知っているのか。そういう質問に男は答えられなかった。男を連れてくるのに必要最低限の情報しか与えられていないのだ。
先代の公爵とは一度だけ会ったことがあるが、ヴィンチェルノ二世とは会ったことがない。いったい相談とは何だろうか。あの宮廷にはお抱えの歯科医がいたはずなので、もしかしたら自分を宮廷詰めの歯科医師に迎えたいということかもしれない。権力者というのはとかく何でも気に入ったものは自分の手元に置いて独占したがる。もしそうなれば再び貧相な口内と、寝ていても治せるような病気だけを相手にする生活へ戻らなければならない。
そこまで考えて、男はその可能性を否定する。今となってはずいぶん前だが、男は様々な国の様々な上流階級人士と会い、その居城へ招かれている、いわば歩く機密事項だ。それを独占したとなれば連合国内の他の公爵や他国の権力者が黙ってはいない。本人に他意がなくても、いらぬ紛争の火種となるだろう。いや、ひょっとして男のその知識が目当てなのだろうか。
どのみち断れるものではない。男は上流階級の人々と接してきた経験から、そのことを理解していた。彼らが来いと言えば、必ず来るのだ。自ら進んで、あるいは兵卒に引っ立てられて。生きて、あるいは死んで。来ない可能性など想像もしていない。なので、迷おうがどうしようが、どのみち選択の余地はない。
「解りました。それで、何か持っていくものは?」
「体一つでお越しいただければ、と」
「では、ああ、着替えて参ります」
男は言った。もちろん、普段着で宮廷へ行くわけにはいかないからだ。そういった振る舞いは、意識するまでもなく身に付いている。
ややあって、二人は外へ出た。男はかつて宮廷へ出入りしていたころの服で、唯一残してあった一式を身に付けていた。
「馬車はこの通りを出たところに待たせてあります。ここはその……」
男は言いよどむ。周囲の人々が注目しているからだ。
滅多に見ないような身なりの紳士と、これまた今まで見たこともないような装いをした歯医者が連れ立って出てきたのだから、無理もない。
「馬車を乗り入れるには狭いですからね。それに、こう人通りが多いところへ馬車で来たら、この上なく目立ちますからね」
男は如才なく答えた。もちろん、すでに充分目立っていることには触れない。
「先生、そんな紳士とどこ行くの?」
「先生なんて放っといて、どう、あたしと? お兄さんみたいな男前なら安くしとくから」
「なに言ってんの! あたしだったらタダでもいいよ。あんな立派な紳士、一生に一度会えるかどうかだろ」
周囲の街娼たちが口々に囃し立てる。客たちは不服そうに騒ぎが収まるのを待っている。
男が紳士の方を見ると、慣れないせいだろう、うつむいて硬い顔をしている。
「これなら馬車でここまで乗り付けても一緒だったかもしれませんね」
男の言葉にも口の中でなにやら呟くばかりだ。
「照れてんの?ちょっとカワイくない?」
そう言いながら、女の一人が紳士のヒジをつかむ。
「ええ、いや」
男はすっかり緊張してしまい、つかまれたヒジを離させることもできない。
「ほらほら。紳士の皆さんが待ちぼうけになってるぞ」
しかたなく男が大きな声で言うと、二人を取り巻いていた囲みが崩れた。
しかし、相変わらず二人は感心の的だ。遠慮ない視線やニヤニヤ笑いが向けられ、ときにかすれた口笛が起こる。紳士は落ち着かない様子で、ようやく通りを抜けて馬車の所へ辿り着くと目に見えてほっとしている様子だった。
馬車は二頭立ての地味なものだったが、見る人が見ればその仕立ての良さに驚く類のものだった。黒塗りで、内側は緋色のカーテンに閉ざされている。
二人が乗り込むと、馬車は静かに走り始めた。未舗装路にもかかわらず、揺れは心地よいものだった。車輪と馬の蹄の音が規則正しく聞こえてくる。人目を惹かないようにするためか、車内に明かりはなかった。男も紳士も喋らない。やがて昼間の疲れから、男は眠ってしまった。
馬車が停まったところで目が覚めた。
「さ。お降りください」
紳士に促され、男は馬車から降りた。続いて紳士も降りる。
敷地内のどこか裏手の方なのだろう。そこは比較的小さな建物の前だった。それでも、男が入居している建物くらいはあるだろう。目の揃ったレンガ造りだ。紳士は重たげな扉のノッカーを、充分な間隔をあけて3度鳴らした。
扉が開き、老人が顔を出した。男は老人の顔に見覚えがあった。
「これは大臣殿。お久しぶりでございます」
男はそう言って頭を下げた。老人は特定の担当領域を持たず、主一家のプライベートの世話やその他必要なあらゆることを担当している。言ってみれば執事頭のようなものだ。男はこの大臣と、先代の頃に会っていた。
「よく来てくれた。すっかり歳を取ったな」
そう言うと大臣は紳士へうなずいてみせた。
「では、わたくしはこれで」
紳士は再び馬車へ乗り、去っていった。
「さあ」
男は大臣の後に続いて中へ入った。
通されたのは小さな部屋だった。部屋の中央には小さなテーブル。その両側に椅子が置いてある他は何もない。
「さて」
二人が向かい合って座ったところで、大臣は言った。だが、そこから先が続かない。
「私を迎えに来た若者ですが」
男は「礼儀正しく」話題を変えた。
「ああ。どうかしたか」
「いえ、首にエリ飾りの跡がありましたので。それなりのお方かと」
「名前は知らんが、奏上係だ。あなたを連れてくるよう命じたとき、敬意を払うよう言っておいたからだろう」
奏上係は公爵はじめ廷臣たちに直接会う役柄なので、名目上よりも実際には高めの身分と見なされている。
「お気遣いくださり、恐縮です」
「かまわん。こちらとしては、どうしてもあなたの助けが要るのだ」
「光栄です。何なりとお申し付けください」
「申し出に感謝する」
大臣は気持ちのこもらない口調で言った。死にたいのなら別だが、何を頼まれても男に拒否できるわけがないことを知っていたからだ。二人にとってこういう受け答えをするのは、それが適切な礼儀だから、というだけのことだ。
「前にあなたとジョアン殿が参ったのは、一度だけだったな?」それは質問ではなかった。「あのとき、我が宮廷の歯科医には会ったか?」
これも質問ではなかったが、男は答えた。
「いいえ。そういう方がいらっしゃるというお話は伺いましたが、お会いする栄誉には恵まれませんでした。むしろ、偶然その方がいらっしゃらなかったので、こちらの宮殿へ参上する機会を賜った次第でして」
「そう。そうだったな。あの歯科医は数年前に亡くなった。老衰だ」
「それは……いやはや……」
男は呟いた。普段なら「それは知らなかった」とでも言っただろう。あるいは「本当か?」とでも。しかしここは宮廷であり、相手は大臣であり、そういう喋り方は相応しくない。男は今でも「宮廷的な喋り方」がスラスラと出てくる自分に驚いていた。
ともあれ、その歯科医が死んだせいで呼ばれたというのは判った。その後数年経つのに、後任が居ないということも。 そもそも、宮廷に歯科医が常駐している方が珍しい。たいていは侍医が必要だと判断したときにだけ呼ばれるものだ。先代の頃から長年雇ってきた歯科医だから当主の代替わり後も残していただけで、宮廷や現公爵は歯科医が常駐している必要を感じていないのかもしれない。
それなら話は簡単で、こうして呼び出されるたびに求められる治療を施せば済む。公爵自身かその家族が急に歯に痛みを覚え、それで今夜こうして呼ばれたのだろう。常駐の歯科医がいたのなら、器具や薬剤はあるはずだから、それを使えばいい。
しかし、男はその予想に確信が持てなかった。もし自分の考えが合っているなら、人目を忍んでわざわざ本館から離れた建物へ呼ぶ必要はない。もっとも、ここに治療設備が据え付けてあるのかもしれないが。それにしても、侍医やその助手ではなく大臣がこうして応対に当たっているのは少し妙だ。「これこれこういうわけだから、すぐ診てもらいたい」という流れにならず、こうして狭い部屋で何かを言いあぐねている大臣と向かい合っているのも。
誰かがドアをノックした。大臣が返事をする。
「ご支度が整いました」
若い女性の声だ。廊下へ出てみると、そこには上質だが動きやすそうなドレスを着た娘が立っていた。侍女の類だろう。
侍女と大臣の後から、廊下を行く。所々に灯された蝋燭のおかげで歩くには困らないが、辺りの様子ははっきりしない。さほど重要でない来客を泊めるための、ゲストハウスといったところか。少なくとも、歯科診療設備があるようには見えない。
やがて、一つのドアの前で一行は立ち止まった。侍女がドアをノックする。
「お連れしました」
中から声が応じたが、ハッキリとは聞こえない。侍女がドアを開けた。と、流れ出す光と匂い。
部屋は先ほどの小部屋より広かった。テーブルが一つと椅子が数脚。どれも前の部屋にあったものよりずっと立派だ。そして壁に沿って何本もの燭台が並び、蝋燭が燃えている。おかげで室内は過剰な明かりに満たされ、やけに熱かった。おまけに甘ったるく強烈なローズの香り。
テーブルを前にして、長椅子に若い娘が2人で座っていた。その後ろに3人、さらに娘が立っている。歳はバラバラで一番歳上が30手前くらいだろう。椅子に座っている。もう一人椅子に座っているのが一番歳下のようで、10代後半に見える。みな似たような顔をしていた。美しいのだが、高い頬とキツい印象の目つき。着ているドレスはどれも夜会に相応しいような、胸元の広く開いた豪奢なドレス。ただし胸元は重たげな首飾りに覆われ、肌はほとんど見えない。白に近いブロンドの髪は四方からの光を受け、自ら輝いているように見えた。公爵の娘たちだ。ただ、記憶違いでなければ公爵の娘は4人だったはずだ。
「姫君方。御紹介申し上げます。こちらがかの高名な」
大臣が口を開いた。いつの間にか侍女は姿を消している。ふと、男は大臣の声に困惑が混ざっていることに気付いた。おそらく準備ができるまで二人とも別室で待っているようにとだけ告げられ、こんな光景が広がっているとは予想もしていなかったのだろう。実に、実に魅惑的な光景。
大臣の言葉を聞きながら、娘たちは揃って笑みを浮かべていた。今にも口を開けて笑い出しそうな、面白がっている顔つきだ。真顔になろうとしているのに、笑いを抑えきれないようでもある。ときおり隣同士で耳打ちをしている。そんなときも、目は男に据えられたままだ。これで5人が街娘なら、なにかイタズラを企てていると思ったろう。実際、必要以上の蝋燭とふんだんな香り、状況と不釣り合いに着飾った姿は、それ自体が大臣からすれば悪ふざけと映るはずだ。
男は目の前の状況を興味深く見守っていた。特にその口元。口の中から時折のぞく歯は、身分の高い娘たちにしては厚みがあって立派そうだった。とはいえ、それとは別にどこかしら違和感がある。男はなぜそんな印象を受けるのか、考えてみようとした。しかし匂いと熱と明るさのせいで思考へ集中できない。
後ろの中央に立っていた娘がかがんで、座っている二人の耳元に何事か囁いた。二人は前を向いたままうなずく。一番若い娘が、立てた人差し指を唇に当てた。大臣が黙る。
それから突然、娘たちは口に左手を当てた。指の長さが際だっている。続いて、左手の下に右手が差し入れられる。手に覆われた手がうごめく、艶めかしい仕草。
5人は最後に軽く首を振りながら少しだけ頭をのけぞらせ、一斉に手を下ろした。その間も、全員の視線が男に注がれている。
娘たちは右手を下向きにしてゆっくり顔の横へ掲げ、ひらつかせた。その指先につままれて、上下ひと揃いの並んだ歯がぶら下がっていた。同時に娘たちは口を開け、中をむき出しにしする。鋭く尖った、鮫のような歯を。
男は鮫の歯の標本を持っていた。娘たちの口に並んでいるのは、それより小さいが形はまるきり同じものだった。厚みがなく人の歯より平板で、先端へ向かって弧を描きながら急速に細くなっている。
男はさっき娘たちの歯に抱いた違和感の正体を知った。あれは作り物だったのだ。娘たちは誘うように、挑むように、からかうように、首をかしげたり指で歯をなぞったりしている。
「お解りだろうが、いかなる神の思し召しか、姫君方の歯は鮫なのだ」
大臣が言った。
「亡き歯科医殿に代わって、あの歯を作って差し上げる、と?」
男は娘たちから目を離し、大臣に尋ねた。娘たちの笑い声、囁き声がほんの少し大きくなる。
「そうだ。我々は“歯のお召し物”と呼んでいる。歯科医はトゥースキャップと呼んでいたが」
男はうなずいた。
「ジョアンもあなたも、見事な義歯を作ると聞いている。歯のお召し物は義歯といささか異なるだろうが」
男はもう一度、うなずいた。義歯制作。それこそジョアンと自分が他の歯科医師より圧倒的に優れている技術なのだ。
「それでは進め方など、打ち合わせよう。そうだな……先ほどの部屋へ戻った方がいいだろうな」
男にとって、それはありがたかった。部屋の暑さやむせるような匂い、それと目にしたもののせいで、少し気分が悪くなっていたのだ。
「そう存じます」
そこで二人は、相変わらず興味深そうに男を眺めている娘たちに暇乞いして部屋を出た。廊下に出ると、大臣は大きく息を吸った。彼も暑さと香りと、そしておそらく娘たちの悪ふざけとで、まいっていたのだ。
「姫君方」
吐き出す息と共に呟かれた一言へ、大臣の様々な感情が滲んでいた。
先ほどの小部屋へ移動すると、二人は再び向かい合って座った。
「どういうわけか、姫君方の歯は鮫によく似ている」侍女が持ってきた水を受け取ると、大臣はそう話し始めた。「幼い頃は普通だったんだ。子供の歯が抜けた後に生えてきたのがあれだ
「最初はもちろん、長女のカトリナ様だ。最初に抜けた子供の歯の下から鋭い歯が生えてきたとき、歯科医はそれを抜いて入れ歯にすることを考えた。しかし、上手くいかなかった。歯はやけにあっさりと抜けた代わり、すぐまた生えてきたのだ。それからも何度か試みたが、上手くいかなかった。
「次に考え出したのが、歯の上から作り物の歯をかぶせるという案だ。これは一応、上手くいった。幸いにもあの歯科医は義歯作りが得意だったからな。あなたたちと比べてどうかは知らないが。
「ただ、問題もあった。姫君方が育てばお召し物は合わなくなるし、子供から大人への歯の入れ替わりに応じても作り直さねばならない。ようやく姫君全員の歯が生え替わっても、使っていれば少しずつ内側がすり減り、緩んでくる。
「というわけで、歯科医は定期的に姫君方の歯のお召し物を作り直していた。そうと知っている一部の者を除けば、誰も気付いていない。まあ、姫君方の歯をしげしげと見る機会などないしな。カトリナ様は一昨年嫁がれたが、嫁ぎ先にわざわざこちらから事情を知る侍医を専属で連れて行かせもした。おかげで、夫君は未だにこのことを知らない。
「もちろん、騙すつもりはない。ただ、なんだ。そのせいで公爵様と親戚関係になれるという折角の機会に、相手が無駄な心配をするというのも双方にとって不幸だろう。
「ところが、歯科医は亡くなった。本来なら代わりの者を見付けるべきだったのだが、なかなか先任ほどの技量を持った信頼できる者が居なくてな。
「そういうわけで、しばらくの間は最後に歯科医の作ったお召し物でどうにかやりくりしていた。しかし、もうそういうわけにもいかなくなったのだ。他の姫君方も嫁がれることになってな。そうなると晩餐会などのようには誤魔化せない。そこで都合よくあなたが見付かった、というわけだ。だから、時間はあまりない。判るだろう?この建物の片隅にかつて歯科医の使っていた工房がある。あなたはこれからそこへ詰め、できる限り急いでお召し物を作り、婚礼に間に合わせねばならない」
大臣の話に、男はただうなずいた。
「かしこまりました。それでは急ぎましょう。まず、姫君方の現在の歯形を取らせていただきたい。それから、ここの工房にあるはずの資料や古い歯形などは使わせていただくにしても、作業は私の工房で行わせていただきたい。どのみち歯形や試作品などは何度も乾燥という工程が入る。ですから、ここにずっと居ても自分の工房にいても作業効率は変わりませんし、私自身がこれまでに作成した資料なども参照できる環境にあった方がいいでしょう。トゥースキャップの材料にしたところで、私の工房にあるものの方が鮮度がいい」
大臣は少し考え込んでから口を開いた。
「なら、そのように」
「では、少し工房を拝見しましょう。もしそこに歯形を取る樹脂があるなら、今すぐ姫君方の歯形を取って帰ります」
そこで男は歯科医が使っていた工房へ赴いた。幸いにも劣化していない歯形用の樹脂が残っており、その他にも歯科医の作成した覚え書きやノートなどが整理された状態で残っていた。男はそうした資料やサンプルの類を自分の歯科医院へ送るよう手はずを整えると、先ほどの小部屋へ戻った。
部屋へ戻った男は女官に命じて、ワインと酢と塩の混合液を作らせた。消毒薬だ。工房にあった消毒薬は気化していて使い物にならなかったのだ。男は用意された液体に手を浸すと、爪の先まで揉み洗った。タオルで軽く手を拭く。
ほどなくして、一人目の姫君が部屋へ入ってきた。長女のカトリナだ。
「さて」カトリナはなにか言い掛けて、顔をしかめた。「この臭いは?」
「ああ、消毒薬です。少々臭いますが、ご容赦ください」
「でも、こんな臭いの消毒薬なんて」
「庶民のための消毒薬ですよ。どんな田舎にだって、ワインと酢と塩はある」
男の言葉にカトリナは忍び笑いを漏らした。唇がめくれて、鋭い歯が露わになる。
「色々な場所へ行ったとか? きっと、ずいぶん変わった歯の持ち主を見たでしょう?」
「ええ。そもそも農夫や漁師は歯にそれほど注意なんてしませんからね」
男は一人分の樹脂を手に取り、こねながら答えた。もう充分に柔らかいのだが、カトリナが話しやめないせいで作業に掛かれないのだ。
こうした反応はこれまでに何度も目にしたことがある。宮廷の人間にとって、宮廷以外の人間でしかも自分たちとこうして話ができる者は珍しいのだ。無理に会話を打ち切ってしまうと、相手の機嫌を損ねてしまう。ほどほどに付き合うことが肝心だ。
「新しいトゥースキャップは嫌い。キツいんだもの」
急に話が変わった。
「ですが、緩いままではいずれ夫君に露見してしまいます」
そう聞いて、カトリナはなぜだかクスクス笑った。
「ええ。そう。でもあの人、本当に気付いてないと思う?」
「さて、どうでしょうか」
「あのときがくると私、部屋の明かりを消させてるの。それからトゥースキャップを外してベッドに入る」そこでカトリナは熱っぽい目を男へ向けた。「最初は普通にするんだけど、すごぉく熱くなるとあの人の腕やら胸元たらをそっと噛むわけ。あの人の反応ったら」
またカトリナは少し笑い、それから口を開くとゆっくり歯を噛み鳴らした。
「ああ、カトリナ様。ちょうどいい硬さになりました」ちょうどいい硬さ、という言葉で、カトリナは意味深に笑う。しかし、男は平然としているまともに相手をしようものなら、どうなるか判らない。「そのままお口を、そう。開いたままになさって」
男は手早く樹脂を口の中へ詰めた。慣れたものでカトリナはそれを軽く噛む。
「さて、それではお部屋へお戻りください。30分後に侍女へそれをお渡しくださいますよう。さあ、入って」
男に促されて入ってきた侍女に連れられ、カトリナは出て行った。去り際に男へ向けた視線には、誘惑やからかいよりも、何かもっと男を当惑させるものが含まれていた。
やがて、二人目の姫君が部屋へ入ってきた。姫君は部屋へ入って来るなり、辺りに漂う臭いをかいだ。
「ワインに酢に塩。当たってる?」
そう言って男へ歯を剥いてみせる。
「ええ。よくお判りに」
「ええ、食べることが好きだから」
「消毒薬の代わりです」
「そう。でもまるで、あなたの指ったら。ドレッシングに浸したみたい」
そして姫君はまた、歯を剥いた。今度は舌先で、尖った歯の先端を舐めてみせた。その視線は男の指から離れない。ふと、男は不安に駆られる。もし、歯だけでなく精神や嗜好まで鮫のような所があるとしたら…。我知らず、樹脂をこねる手に力がこもる。
「さ、それでは失礼して」
男が座った姫君の口元に手を近づけると、姫君は開けていた口を勢いよく閉じた。指のほんの先で、切れ味のよさそうな歯が音を立てて噛み合わさる。男は思わず手を引いて固まった。
「あなたの手、きれい。前の歯科医は指や手に、いっつも生傷があったけど」
カチ、カチ。喋るたびに歯が鳴る。わざとだろう。姫君はもう一度、わざとらしく頭をのけぞらせて空気を鼻から吸い込む。
「それに、この匂い。おなかが空いてきちゃった。何か軽く、そう、ハムと野菜のサラダとか。ドレッシングをたっぷり掛けて」
男は気付かないうちに不安を顔へ表していたらしい。急に姫君は笑い出した。
「冗談だって。冗談。誰もあなたの指を食べたりなんかしないって。さ、どうぞ」
姫君はそう言うと行儀よく座り直し(いつの間にか男へ向かって身を乗り出していたのだ)、口を開けた。男は恐る恐るその口の中へ樹脂を入れた。手を引くとき、イタズラっぽく微笑む姫君と目があった。
「さ、そこへお座りください。口を開けてじっとして」
3人目が入ってきたとき、男は決然とした口調で告げた。言われた姫君はおとなしく従う。口の中を見た男は、前の二人に比べてこの姫君の歯が発達していることに気付いた。よく見れば、肌も少し焼けている。
「遠乗りでもなさるのですか?」
前の二人からからかわれたお返しに、少し驚かせよう。男はそう思って言った。
「へへ。ふほい」
素直に口を開けたまま、姫君は答えた。
「あ、まだ普通に喋っていただいて結構です」
男は慌てて言い添える。姫君は口を閉じる。しかし、話が終わってしまったせいで、今度は気詰まりな沈黙がやってきた。だが、やっぱり口を開けてくださいとも言いづらい。
「その。運動がお好きなんですね」
失礼にならない程度に姫君の体を眺め、男は尋ねた。ドレスに隠されてはいるが。その体はそれなりに鍛えられているようだ。
「ええ」
素っ気ない答え。
「体を動かされるなら、トゥースキャップが緩いと不便でしょう」
「やっぱり口を開いてください」と言いたくなるのを堪えて、男は無理に話を続けた。
「え?」
「いやその、緩いと取れてしまいそうになりますからね」
「ああ、なるほど」
おかしなことに、姫君は男の言葉へ納得したようだった。
どことなく奇妙だ。しかし、詮索するのは愚かだ。とはいえ、やはり気になる。無理に雑談を続けていれば、思わず余計な話題に踏み込んでしまいかねない。
「やっぱり、口を開いてください」
男が言うと、姫君は口を開けた。手早く樹脂を押し込む。
「はい。閉じていただいて結構です。侍女が回収しますので、それまで軽く噛んでいてください」
おとなしい姫君は素直に指示へ従うと、なぜだか少し悲しそうな顔をして勝手に部屋から出て行った。開いたドアの向こうに、控えていた侍女の驚いた様子が見えた。
残り二人の姫君は先の3人よりも幼かった。ごく普通に外の様子を知りたがり、偏見に満ちた疑問を無邪気に投げかけ、男は適当にあしらいながらその口へ樹脂を詰めて黙らせた。
侍女が回収した歯形を携えて帰りの馬車に乗ったとたん、男は頭がぼんやりするのを感じた。気持ちが緩んで、いまさら姫君たちの歯に圧倒されてしまったのだ。軽く目を閉じれば、健康的な桃色の歯茎を縁取る、鋭利な歯並びが浮かぶ。この上なく凶悪で荒々しい、人の歯より遙かに古い歯が、柔らかな唇と描く対比の妙。磨き上げられ、不思議と滑らかな表面(と、ここで男はかすかな不安を覚える。普通に食事と手入れをしているだけなら、あそこまで滑らかに研磨されはしないはずだ)。二人の年長の姫君が向けてきた熱っぽい視線。肉欲でも誘惑でもない何かが、あの視線にはあった。しかし、なにが?「食べることが好きだから」という二人目の姫君の声が思い出される。冗談だと言っていたが、しかし、本当に冗談なのか?
男は歯形が届けられるのを待つあいだ、老歯科医の手記に目を通していた。その記述の一部が、急に気がかりとして思い出される。
--姫君方は健啖家であり、力強い咀嚼によってトゥースキャップが内側から削れ--
--月のものが来ると歯がむず痒くなるらしく、何にでもやたらと噛みつきたがるようになり--
--姫君方はふざけたおつもりだろう。しかし指の痛みは--
最後の記述は姫君方が子供の頃の話だ。大人になった今、もうそんなことはしないと信じたい。「前の歯科医は指や手に、いっつも生傷があったけど」
渦巻く不安と歯に対する陶然とした思いとは、馬車が聖少女通の手前で停まるまで入れ替わり立ち替わり、混然となって続いた。
翌日から、男は姫君たちのトゥースキャップ作りに取り掛かった。患者のいないときや診察時間が終わった後で前任者の資料を調べ、歯形から試作品を作り、宮廷の工房と自分の工房とを往復した。着手してみるとそれは、なかなか取り組みがいのある課題であることが判った。熱心な職人気質を持つ者の常として、男はその仕事に没頭した。その間、姫君たちとは一度も会わなかった。
前任の歯科医が作ったものは、なかなかよく出来ていた。跡継ぎを見つけるのは難しい話だったろう。確かに、改良の余地はあった。特に着脱に関する部分は大いに一考の余地があった。しかし(ぞっとすることに)誰か姫君のあごの力に耐えかねてトゥースキャップが砕けた際に前任者が加えた改良、つまり内側と外側の間に細い鋼のワイヤーを入れるという改良は的を射たものだったし、内側の素材についても多くの試作を行いその結果を残していてくれたおかげでずいぶん手間が省けた。
作業は順調に進んだ。課題があっても、どうにか乗り越えられた。改良も加えられた。しかし、ひとつの壁が男の前に立ちはだかった。強度だ。
前任者の資料を見ていると、強度について常に問題があるようだった。外側であれ内側であれ、硬すぎれば細工が粗くなり、精巧な細工がしやすい硬さでは強度が足りない。しかも、この資料を残した歯医者の決定的な欠点として、強度もろもろの数値が残っていない。けっきょく彼は、科学的精神よりも前の時代の人間なのだ。
そこで男は実際に姫君たちと面会し、噛む力を測定することにした。そこからどの程度の強度を持たせる必要があるか割り出そうというのだ。
測定方法は単純で、いくつかの太さの白樺の木を噛んでもらうというものだった。それぞれの木はどれくらいの力で折れるかあらかじめ測ってあったので、その結果と照らし合わせれば正確な強度がわかる。木は角を丸め、シロップで煮て味付けしてあった。いくらなんでも、ただの棒では失礼だろうと考えたのだ。その答えとして「甘くする」というのが相応しいかどうかはともかく。
計測は、最初に男が姫君たちと会った部屋で行われることになった。夜遅く。相変わらずの過剰な蝋燭に、今回は濃いラベンダーの香り。姫君たちは前回と同様に芝居がかったポーズで男のことを見つめている。二人がけの長椅子の前に小さな台が置かれ、その上には銀のトレー。甘く煮た木の棒が盛られている。
「噛む力、ね」
椅子に座った二番目の姫君は一番太い一本をつまみ上げると横にくわえた。たいして力を入れたとも見えないのに、棒は二つにへし折れた。
「これでいいの?」
口の中の破片を行儀悪く吐き出しながら、二番目の姫君は尋ねた。ほかの姫君が笑う。あの、おとなしい姫君までも。男はすっかり動揺した頭でどうにか代案を考えた。侍女に頼み金の板を5枚、用意させる。さすがに王宮だけあって金の板はすぐに揃った。男は姫君たちに一枚ずつ板を噛ませて持ち帰り、後で同じ板に鋳鉄製の牙を万力で押し当てた。同じ深さのへこみを作り、噛む力を割り出したのだ。なかなか慄然たる結果だった。
そうした試行錯誤を重ねながらも、トゥースキャップは1カ月半ほどで完成した。姫君たちの要望で、トゥースキャップは男によって直々に配布された。真新しいそれを口にはめ、姫君たちは初めて姫君たちは男へ普通に微笑んだ。そうしてみると姫君たちの笑顔は実に感じがよく、洗練された気品をたたえていた。まるで男の作ったトゥースキャップが、鮫の歯の荒々しさを押さえ込んだかのようだった。男は姫君一人一人の口の中をのぞき込み、そのできばえに満足を感じた。
翌日、男は再び呼び出された。不具合でもあったのだろうか。誰かがおもしろ半分に新しいトゥースキャップの頑丈さを試そうとして、歯が欠けたとか。不安な気持ちでいつもの建物へ行くと、またあの部屋へ案内された。この日は常識的な数の蝋燭と、控えめながら心地よい香水の香りが部屋を満たしていた。そこには姫君たちと大臣のほかに、もう一人いた。初めて見る顔だ。どこか姫君たちに面立ちの似た、それでいて重苦しい険しさのある顔をした老人。男はそれが公爵であることに気付き、咄嗟に床へひざまずいて頭を垂れた。
「立ち上がれ」
公爵は言った。重責に疲れた声というよりも、気ままな娘たちに手を焼いて疲れ切った父親という感じがした。
「畏れ多いことでございます」
男はそう言うと、ますます深く頭を下げた。
「ならば、立ち上がることを命ずる」
公爵の言葉で男はようやく立ち上がった。
「顔を見せよ」
そこで男は公爵へ顔を向けた。一連の儀礼だ。
「娘たちの歯に対する汝の働きはたいそう満足のいくものだった。そうだな?」
公爵の言葉に娘たちはうなずく。
「さすが当代一の歯医者だ。汝のような医学の粋が我が国に滞在していることを嬉しく思う」そこで公爵は言葉を切り、男が不安になるほど長く黙っていた。「また、今回の働きは我が国の円満な進行を密かに救った。この功績には相応の報いが必要だろう。あの公爵はケチ臭い、などと他国の王侯に言いふらされても困るからな」
冗談のつもりなのだろうが、誰も笑わなかった。そもそも冗談とはいえその言葉は、男が他国で上流階級の人々に余計なことを言わないように、つまり、他国へ行くことは許されないということをも意味していた。最初から解っていたとはいえ、うかつに笑えるような内容ではない。口封じに消されることこそないものの、「褒美として王宮での安楽な隠遁生活を」という名目で軟禁されることだってあり得る。
「ときに歯医者よ。お前は子もなく弟子もなく、貧しい者たちに施療を行っていると聞いた。本当か?」
「はい」
公爵は男の言葉に、大げさな身振りで頭を振った。
「その博愛の精神は尊敬に値するが、国民の健康を預かる立場としてはそのような無駄を許すわけにはいかない。そこで、私は王立歯科学院を設立することとした。お前はその初代学院長兼主任教授として広く後進の育成に当たり、自らの知識、技量を公国一般のものとしなければならない。そのためには相応の伴侶も必要であろう。そこで、三女を娶らせることに決めた」
男は驚いて娘たちの方を見た。三女といえば、あのおとなしい姫君だ。
「委細は大臣と話し合うといい。私はもう行かねば」
公爵はそう言うと、娘たちを伴って部屋を後にした。残された男と大臣は、あの小部屋へ移った。
「望外のことに何か申し上げることもないのですが」向かい合って腰を下ろすと、さっそく男は切り出した。「公国のためを思いますと、いささか懸念すべき点があります」
「懸念?」
大臣は面白がっていることを隠そうともせず聞き返した。
「私はこのとおり、若くありません。姫君を妻にお迎えするとしても、子を授かるにはいささか。それに、身分の釣り合いもありましょう。三女とはいえ公爵の姫君が歯医者と結婚するなど、他国に対しての面目が。それに、姫君たちは全員が結婚を控えておられたはずでは?」
大臣はうなずいたが、まったく取り合う気はない様子だった。
「まず、年齢のことだ。先代の公爵様が現公爵様を授かったのは、そう、およそあなたくらいの年齢だった。それに、三女の姫君が結婚されることになっていたというのは、最初からあなたとの結婚を意味していたのだ。それに、身分やら他国への対面なども心配はいらない。なにせ、他の国はあの姫君の存在を知らないのだからな。国内ですら知っている者はわずかだ。妾腹の子というやつだ。
「もう何年も前。公爵様がまだお若かった頃、海辺の町に滞在したことがある。そのとき、一人の女が寵愛を受けた。その後、公爵様が立ち去ってから生まれたのがあの娘だ。お忍びの旅だったから女は誰が父親か知ってはいても、その誰かが誰なのかまでは知らなかった。
「というわけで、三女の姫君が見いだされたのはつい一年ほど前。たまたま姫君を存じている者がその町を訪れて宿屋に泊まり、そこの若女将だった三女の姫君をお見かけしたためだ。
「だからな、他の姫君と同様に三女の姫君を嫁がせるわけにはいかんのだ。それに、いつまでも宮廷に住んでいただくこともできない。他国の大使などが来て、あのお方はどなたか?となっても困る。
「私も庶民のあいだに自由恋愛というものがあることは知っている。宮廷にも密かにあることはあるが。そこで、この話が決まったとき三女の姫君にお考えを伺ったことがある。それによると、だ。辺鄙な漁村の女将として適当な漁師と所帯を持つはずだったのだから、地位も名誉もある歯科医と結婚することは幸運なのだそうだ。そりゃそうだろう。しかも、気を悪くしないでほしいが、三女の姫君はあなたを可愛いとも仰せだ。もっともこれは他の姫君がそう言ったのに同意されたという形だったが。ま、嘘ではないと見ている。それに、これは私の推測であって間違っていると思うが、コルセットだけでなくここでの暮らしそのものが、三女の姫君には窮屈に感じられるらしい。宮廷より漁村の方がいいなどありえないことだが、勝手の違う世界でなるべく人目に触れないよう息を殺しているというのは、なんであれ窮屈なものかもしれない」大臣はそこで言葉を切ると、少しして付け加えた。「謹んでお受けすると申し上げておくぞ」
男はうなずいた。この場合、他にできることなどなかった。さほど不満がなかったのも事実だが。
こうして男は結婚し、学院長に就任した。朝から夕方まで講義と実習を行い、夜は家へ帰る。もう聖少女通りには住んでいない。
よくある話だが愛は結婚の後に育まれた。男はすっかり若返った気分で帰りを待っていた妻に口づけをし、ときには花束を手に帰宅することもあった。
三女の姫君はヒルダという名前だった。田舎風の名前だ。彼女は相変わらず寝るとき以外、トゥースキャップをはめている。夜が更けて二人がベッドへ入るときになると、ヒルダはそっとトゥースキャップをはずし、ベッド脇のサイドボードへそれを置く。枕元の壁に下げられたランプの光の下、形作られたある種の「文明」が取り去られ、その下から荒々しい「鮫の野生」が剥き出しになる瞬間は、男にとって何度繰り返されても見飽きない光景だった。
男は大臣の言葉の真偽を妻に尋ねてみたことがある。妻はうなずいた。
「そりゃそうよ」
妻は尖った歯の先に舌で触れながら答えた(宮廷でおとなしかったのは、姫君としての振る舞いに慣れていなかったせいだったのを男は結婚後まもなく発見していた)。
「あのまま宮廷でお荷物扱いされてるよりは、ずっといいに決まってるじゃない。あ、誤解しないで。あそこの人たちとは上手くやってたんだから。特にお姫様たちは思ってたより気さくだったし、外の世界のことを知りたくってなんだかんだ質問ばっかり。すっかり仲良くなれちゃった。ま、あなたには教えられないような質問ばっかりだったけど。
「それに、知ってる?漁師だったら30歳くらいにはあなたみたいな見た目になっちゃうんだから。なのに頭の中は魚と酒と博打と女のことくらい。あなたみたいな人の方が、私はずっと好き」
男にとっては全てが満足のいくものだった。尊敬のまなざしと手応えのある仕事。愛せる妻との暮らし。実習にはこれまで歯科医院で診てきたような人々を起用し、時間をやりくりすれば視察という名目で地方へ行くこともできた。
妻が優れた語り手であるのも嬉しい驚きだった。彼女は寝しなに様々な物語をした。多くは漁村に伝わる民話や伝承だったが、旅人から聞いた話も多かった。どれも巧みな語り口と相まって、引き込まれるものばかりだった。
あるときヒルダは、自分のところへ宮廷からの使者が来たときのことを語った。
「私はずっと、母さんと海神様とのあいだにできた子供だって教えられて育った。海神様が若者に化けて母さんのところへ来たんだって。みんなもそう信じてた。私の歯が鮫の歯で、海神様は大きな鮫の姿をしてるって言われてたから。正体不明の身なりのいい若者。ね? 公爵様だと思うより、海神様だって思う方が自然じゃない? 海神様は毎日拝んだりする身近なお方だけど、公爵様なんて私たちからしたら神話の中の人みたいなもんだから。
「さすがに私が普通の娘だったらそれでも誰かがお忍びできたんだろうって思っただろうけど」そこでヒルダは自分の歯を噛み鳴らす。「で、ある日、立派な格好の人が来た。普通の旅人に返送してるつもりだったんだろうけど、貧乏人の目はごまかせない。その人は私と母さんを狭い部屋に呼んで、そっと本当のことを打ち明けた。そこで私は知ったの。ああ、母さんは公爵様に迷惑を掛けないようにしてたんだ、って。だから誰にも本当のことを喋らないで、私が海神様の娘だなんて言ったんだ、って。私に隠してたのはショックだったけど、ちょっと感心した。本当に短い間だけだったけど、本気で愛した人のためにそこまで貫いたんだから。
「でも、使者の話を聞いた母さんの顔! びっくりしすぎて死んじゃうんじゃないかと思った。腰が抜けてたし。母さん、本気で自分の相手が人に化けた海神様だと思ってたの」
「どこが面白いのか解らないな」
「だからさ」
ヒルダは説明しようとして夫がニヤニヤしているのに気付き、止める。代わりに夫へニヤリとしてみせ、ランプの明かりを吹き消す。暗闇の中、男は妻の息づかいが近づくのを感じる。
男は自らの得た幸せを驚嘆の思いとともに眺める。他の娘たちのことを思い浮かべる。そして彼女たちの夫のことを。 彼らは自分と同じくらい、結婚生活に満足しているだろうか。そして夜の闇の中、妻が腕を甘く噛む感触に、熱を帯びた息が腕の毛をなでる感触に、言いしれぬ快感を覚えるのだろうか。あの娘たち。鮫の歯を持つ娘たち!