薄く擦った墨を静かに流し入れたような空から、細い雨粒が際限なく降っている。その雨に全身の毛を項垂れさせて一匹の痩せた犬が歩いている。犬は雑種なのだろう。首輪もせず、雑種特有の曖昧な姿をしている。犬の歩みは遅く、脚だけがひどく重い物で出来ているかのようだ。あれじゃバスマットにもなれない。イナハラキヨコは大きな牧草色の傘の下から犬を見詰め、そんなことを思う。
猫がタオルに近付き、タオルが猫に近付く。犬がバスマットに近付き、バスマットが犬に近付く。そうした現象が世界中で起こり始めてからもう二ヶ月にもなる。既に誰もがそのことで騒ぐのに疲れ果て、今はただ、謎の前に頭を垂れて黙っている。この現象の原因として、様々な説が挙げられた。拡大する一途の遺伝子産業が原因だとする者もいれば、事態が始まるのと同時に降り始め、今まで止むことのない世界的な雨のせいだとする者もいた。けれど、本当のところ一体なぜこんなことになったのか、その答えを見付けられた人間は一人もいない。
どこからともなく湧き出す雲によって、世界中で雨が降り続けた。しかし雨脚はどこまでも弱く、洪水などは殆ど発生していなかった。空は常に濃淡のある雨雲によって覆われ、蒸気のような雨が道行く人々をしっとりと湿らせた。
人の目には既に、猫や犬とタオルやバスマットとの見分けが付きにくくなっていた。猫とタオルを同時に見せ、どちらがどちらであるのかという実験では正答率がほぼ五〇パーセントだったらしい。確かに、キヨコもその二つを見ただけで判断するのは難しかった。衣装ケースの、タオルの入った段を開けると中には猫が折り重なって詰め込まれているように見え、慣れないうちは気味悪く感じたものだった。
辺りがずいぶん明るくなってきた。日が昇ってきたのだろう。普通なら明けの太陽が東の方に見えているはずだ。時計を見ると時刻は四時を回っていた。キヨコは足元に煙草を捨てると、アパートへ向かって歩き始める。
アパートへ帰る頃には全身が湿気に覆われ、服も心なし重たく感じられた。傘を巻き、靴を足から引き剥がしているとタオルのようなものが寄ってきた。飼い猫のケルだ。ケルは一時期一緒に暮らしていた男が誕生日に買ってくれた猫だ。キヨコが、ペット可のアパートに住んだのはいつか猫を飼うためだと話していたのを憶えていたのだ。男とは、詰まらないが決定的な諍いを何回か経た末、別れてしまった。朝方、荷物をまとめて男が去ってそれきり、どうなったのかキヨコは知らなかった。知る手立てはあったのだが、もう興味が失せていたのだ。僅かな荷物を担いで男がドアを閉めた瞬間に感じた痺れるような虚脱感をキヨコは今もはっきり憶えている。
ケルも最近ではすっかりタオル化してしまっていた。もともとは真っ白い毛色の和猫だったのが、青い花模様のタオルに見えるのだ。もともとおとなしい猫なので、なおさらタオルめいて感じられる。
「おいで、ケル」
靴を脱いだキヨコはケルを抱き上げた。その手に伝わる感触は毛皮のようでもあるが、それとぶれ重なるようにして日の光に暖められたパイル地のようにも感じられる。脇腹が呼吸に合わせて伸縮するので、確かに生き物だという実感がある。
キヨコはケルを顔の前まで持ち上げると、その顔を覗き込んだ。タオルのような、猫のような、定まらない印象にめまいを誘われる。キヨコはそれを振り払うために少しのあいだ目をきつく閉じると、リビングへ向かった。
猫のために皿の水を替えてやるとキヨコは風呂へ入るため、クローゼットに押し込んだ衣装ケースから寝巻きや下着を取り出す。バスタオルはかつて、黄緑色の無地だったものだ。今は巨大なアメリカンショートヘアのようにも見える。手で掴むそのタオルは息絶えたばかりの獣の死骸を思わせる。それはタオルだと判っていても、どこか汚らしく感じられた。
風呂上り、湯に洗われて火照った身体を乾いたタオルで拭く行為は、もう心地よいことではなくなっていた。肩を、背中を拭う瞬間に感じる湿った毛皮の感触。その度にキヨコは手を止め、短く舌打ちをする。足の下ではバスマットが、病んだ犬そっくりになっている。完全に脱力して目を閉じている。足裏の感覚が毛皮になったりタオルに戻ったりで何とも気色悪い。
水気を吸った、猫めいたタオルを脱いだ服と一緒に洗濯籠へ投げ込む。鳴き声を上げないのが不思議なくらいだ。寝巻きを身に着けるとキヨコはもう一枚の、三毛猫によく似たタオルで頭を拭きながら冷蔵庫からよく冷えた烏龍茶の缶を取り出す。プルタブを引き開け一口飲めば、熱い体の芯を清涼が滑り落ちる。酒に荒らびた胃の腑が小さく呻く。
キヨコは「秋夜」という小さな終夜営業の喫茶店で働いていた。決して愛想がいいわけではないのだが、特にクビになるというわけでもなくもう三年になる。最近は店で出すおしぼりも猫じみており、客は殆ど触れようともしない。キヨコ達も形だけ籠の中でぐったりしているタオルを見ていると、手の先で客に勧めるようにすると、すぐに下げてしまう。籠の中でぐったりしているタオルを見ていると、テーブルの隅で触られることなく放置されている、兄弟のようなおしぼりのだらしなく開いた姿のことを思い出す。
穏やかな白い毛並みに花模様を滲ませたケルが足元に擦り寄ってきた。キヨコは顎を撫でてやる。その指先に残るタオルの感触。ケルは嬉しげに目を細め、僅かに縫い目が膨らむ。その、ささやかにタオル的な感情表現を目にして、キヨコは胸郭に圧を感じる。
微かに、聞き覚えのある声がした。細く、緩く、長く、引っ張る。猫の鳴き声だ。幾つもの鳴き声は弱々しかったが、確かに近くから聞こえる。キヨコは声の源を求めて室内を見回した。やがてその目がクローゼットの扉で止まる。わけもなく震える手でキヨコはクローゼットの扉を開いた。甘えを含んだ鳴き声が一段と高まる。
声がどこから来るのか、はっきりとしていた。キヨコは床にしゃがみこんで烏龍茶の缶を脇に置くと、両手で衣装ケースを引き出した。中に入っていたタオルの、見開かれた憂金色の眼が一斉にキヨコを見上げる。幾つもの瞳が、瞬きもせずにキヨコを見た。その声は一様に茫洋として掠れていた。キヨコの隣に佇んだケルが、タオル達の声に呼応して低く鳴き声を上げる。キヨコは俄かに不安を感じ、ケルの頭を撫で回す。
テーブルの上に置いたバッグから煙草を取り出すと一本抜き取り、キヨコはそれに火を点けた。衣装ケースの中で窮屈そうに折り重なっている猫めのタオル達に目線を据えたまま、ゆっくりと煙草をふかす。タオル達の目が立ち昇る煙を散漫に追いかける。タオル達の鳴く声は限りなく猫のそれに近かったが、何かが決定的に猫とは違った。それはどんなに耳を澄ませても、所詮は繊維の塊が声を上げているのにすぎなかった。それはその僅かな差のせいで、聞くものを苛立たせた。
黙らせたいという思いを持て余し、キヨコは腕を組んで窓の外を見遣った。カーテン越しの外はすっかり明るくなっており、朝の気配が満ちている。思い立って窓を開けると、朝の風が涼やかな夜気の名残を孕んでそよいでいる。キヨコは目を閉じ、耳に意識を集中した。するとタオル達の鳴く声が遠く、大きなうねりとなって聞こえる。幾千、幾万ものタオル達の声が、湿気のわだかまった空間を渡って呼応し、響き合う。キヨコは暫しのあいだ身動きをせず、その声に耳を傾けた。背後ではキヨコのタオルも鳴いている。ケルが不安そうな声を上げる。
ケースの中からタオルをまとめて取り出すと、キヨコはそれを床に並べた。三毛、茶寅、燻し銀。様々な毛並みのタオルがフローリングに広がる。ケルがその一枚に歩き寄り、鼻先で軽くつついた。つつかれたタオルの端が捲れ返る。猫の左脚、のように見える部分が不自然に捻れる。その、歪んだ脚のシルエットを見るともなしに眺めていると、ある思い付きが浮かんだ。
キヨコは一番近くにあった、柑橘色のタオルに手を伸ばし、畳んであったそれを開いていく。広げられていっても、タオルは猫のひらきになりはしなかった。ただただ押し延ばされたようになっていく。平たくなりながらもタオルの目はキヨコを捉えている。その視線には生物であればどんなものでも持っている内的なものが欠けていた。完全に物体である存在の視線はこちらまでも無生物にしてしまいそうな無感覚さで出来ていた。
物に凝視されるという感覚に耐えかね、キヨコはタオルの頭を掴み、身体の下に押し込んだ。そして隣のタオルも同様に広げ、頭を身体の下へ敷く。キヨコは一枚一枚を開いていった。押し潰された首なし猫が累々と床に横たわる。最後の一匹を首から折り込むと、もう辺りに猫はいなかった。鳴き声も止んでいる。
キヨコは何気なく最後の一匹を見遣り、固まった。青い花柄の真っ白い毛皮をしたそれは、間違いなくケルだ。慌ててキヨコは肩の間から頭を引っ張り出す。見慣れた飼い猫の顔を目にしたキヨコは、無言でその身体を畳みなおした。四肢があらぬ方へねじくれる。