新築だというそのアパートは、最初から厭な感じがした。外観こそ晴れ渡った秋空を思わせるスカイブルーに塗られ、その外壁が陽光をぬめやかに反射しているのだが、どうにも陰気な気配は隠しようがない。しかし、フローリングの部屋は図面よりも広く感じられたし、水回りやドアの立て付けもしっかりしているようだった。何より、収納の広さが気に入り―それは不自然に広すぎる感じたっだが―私はそこへ引っ越すことに決めた。
それは引っ越して4日目に起こった。仕事を終え、家に帰ると、リビングの片隅に見たこともない老婆が立て膝で座り、こちらを睨んでいる。何がそんなに気に入らないのか、黄色みがかった眼球はまばたきもしない。疲れ切った私は老婆を無視してクローゼットの衣装ケースから着替えを取り出し、シャワーを浴びた。頭を洗っているとしきりに背後から人の息遣いが聞こえるが、シャンプーを流してから振り返ると、誰もいない。おまけに、外へ出ると老婆も消えていた。
総菜屋で買った酢豚と、冷凍しておいたご飯で夕食をすませると、私は暇つぶしがてら近所のコンビニへ向かった。人気のない住宅街を歩いていると時折、表へ漂い出てくるテレビの音や、浴室から漂う入浴剤の匂いとぶつかる。
向かいから誰かが歩いてくる。その姿はハッキリしないが、どうも違和感がある。近付いて理由が判った。首から上がないのだ。そのくせミントグリーンのキャミソールなんかを着て、鎖骨から胸元にかけてを血で赤黒く染めている。右手には吸えもしないタバコが煙を立ち昇らせ、先端が夜目にぼんやりと輝いている。
日本中で心霊現象が多発し、雨が降るとのと同じくらい日常的になって、どれくらいになるだろう。今ではもう誰も、不快に思う以上のことはない。コンビニの人影だって、5人に1人くらいは幽霊だ。飛び込み自殺の多い駅では朝、ホームに電車が入ってくると、古代の皇帝へ身を投げ出す乙女のように、幽霊たちがホームから電車めがけてダイブする。
コンビニで500ミリパックのルイボスティーを買い、店の前で口を開ける。パッケージの側面には「弊社の製品にはまれに、灰色の肌をした小人が混入することがございますが、品質には影響ございません。よく振ってお飲みください」と書かれている。私は飲み口から中をのぞき込むが、それらしい影は見えない。
思い立って、恋人へ電話を掛けてみる。今頃はもう、仕事を終えて家に帰っているはずだ。携帯電話の電話帳から番号を呼び出す。呼び出し音3回でつながった。受話口から喉にからんだ呻き声が聞こえてくる。今では幽霊につながった場合、電話料は発生しないことになっているが、それでも鬱陶しいことに変わりはない。私は舌打ちをし、通話を切る。切れる瞬間「待てよ」という、低く膨らんだ女の声がハッキリと聞こえた。
電話を掛け直す気をなくして、ルイボスティーのほのかな酸味を味わっていると、通りの向かいで女の幽霊が信号待ちをしていた。時代遅れの野暮ったいロングコートを着て、長い髪が俯いた顔を隠している。私はその幽霊が、さっきの電話の相手だと直感した。
信号が青に変わった。ひび割れた電子音が「通りゃんせ」のメロディーを奏でる中、幽霊はゆっくりと横断歩道をこちらへと渡ってくる。
―面倒なことになった。
私は深い溜息とともに夜空を見上げる。下弦の月が、ばかに長く伸びて見えた。