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フライドポテトと信仰心

残りわずかになったフライドポテトを、私は惜しむようにつまんでいた。一本一本、味わおうにも平板すぎる塩と芋の味。マクドナルドの3階は、昼飯からも夕飯からも遠いこの時間帯は空いている。窓の外には狭い通りを挟んで、2階建ての建物が並んでいる。その屋上を越えて遠くに、背の高いビルやマンション。見えたところでどうということもない景色だ。と、居並ぶマンションの一つ、ドアが並んだ最上階の廊下に一人の男が現れた。

男はスーツ姿なのだろうが、やや離れているのでハッキリしない。廊下を少しのあいだうろついたかと思うとおもむろに柵を乗り越え、身を投げた。 頭から落ちる男の妙に広々とした背中が見えていたのは一瞬のことで、すぐにその姿は手前の建物に遮られてしまった。

私は席から腰を浮かせるとすぐに座り直し、指で挟んでいた一本のフライドポテトを見遣ると叩き付けるようにトレーへ投げ出した。ほどなくして、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。見回せば店内で飛び降りに気付いたのは私一人らしい。他の客たちはそれぞれ直径10センチほどしかない円盤状の世界に没頭している。私は残っていたコカコーラを飲み干すとトレーを返して店を出た。

店を出ると、パトカーがサイレンを鳴らしながら通りを横切っていった。人の流れも先ほどのマンションへ向かっているような気がする。私はその流れに乗らず、駅の方へ向かった。まき散らされた血痕など見たくもない。そもそも、わざわざ足を運んで見るほどのものでもない。

どういうわけか、私は飛び降り自殺を目撃することが多い。といっても年に1回か2回あるかどうかだが、それでも普通の人に比べれば異常に多いだろう。それが学生時代からもう10年以上も続いている。

今回のように少し離れていて、最期を見ずに済むこともある。一方で、歩いていると目の前に人が落ちてきたこともあった。そのときは飛び散る血しぶきが靴先を汚し、私はその靴を寺に預けるハメになった。自分で捨てるのは何となく気味が悪かったのだ。

何度体験したところで、飛び降り自殺を目撃するショックは薄まらない。それどころか何かが精神に蓄積されるらしく、1回ごとにその体験は私を蝕んでいくようだった。今もこうして駅を目指して歩いているものの、その足取りは現実味を失い、目の前の光景と私の意識の間には、薄紙が挟まれているような気がする。

なぜ、こんなに飛び降り自殺の現場を目にしてしまうのか。突き詰めてしまえば偶然と言うことなのだろう。だがしかし私の中の何かがそれでは納得していないらしく、もう何年も前から私がカトリックを信仰するようになっているのも、こうした異常な体験のせいだろう。最初はそんなふうに考えてなどいなかった、だが、私生活で深刻な状況に陥った最中、ふと思い立って教会を訪れたのが最初に飛び降り自殺を目撃して間もなくだったのだから、だからやはり重大な影響を受けていたと考えるのが自然だ。

信仰を持っているとはいえ、別に熱心というわけではない。自分でも忘れた頃に日曜の礼拝へ出かける程度で、もともとは幼い頃にカトリック系の幼稚園へ通わされていたことが関係している。その程度でも縁はあるもので、私が今働いているのは、同じ教会に出入りしていた人が経営している、小さな小さな翻訳・通訳事務所だ。今日は仕事で朝から現場へ行き、遅い昼食をすませて帰宅するところだった。本当は一日がかりの仕事になるはずだったのだが、思いがけない出来事のおかげで早めに終わった。ようするに、客先の担当者が風邪を押して出てきたものの、半日ほどで力尽きたというわけだ。

電車に乗っていると、これまでに目撃した飛び降り自殺のことがあれこれと思い出された。どれもこれもが鮮明なような、他の記憶と混ざって曖昧なような、不安定な感じだ。だが、一番最初に目撃した飛び降り自殺。それだけは他の何と混ざることもなく、強烈に思い返される。

そのとき私は、薄曇りの空の下をあてもなく歩いていた。頭の中はどうにもならないところまで来てしまった個人的な問題で一杯だった。考えたからどうなるというわけでもないのだが、その問題がもたらす結果を待って家でじっとしているのも耐えられなかった。

奇妙なことにその男が地面へ衝突する前、つまり宙を落下しているところは記憶にない。物音に気が付いたら目の前に男が倒れていたのだ。

当然、何が起こったのか解っていなかった。ただ、誰かが急病の発作で倒れたのだろうと、そう認識したような気がする。

私は仰向けに横たわった男へ近付いた。そうして少しだけ緊張した声で呼びかけながらその左肩をつかみ、揺すった。 その時、私は様子がおかしいことに気付いた。ただ倒れただけではない。顔中が傷だらけで右肩が奇妙な具合に前へ突き出し、頭の形も変だ。よく見れば鼻の穴から鼻血がのぞいている。

倒れたわけじゃないらしい。そう思いはしたものの、体は勝手に男の体を揺すりながら声をかけ続けた。

と、男の目が開いた。やや間があってから、男は自分のしたことと状況に思い至ったらしい。呆けたような顔がすぅっと歪み、顔中を汗が覆った。

なぜだろう。そのとき私は、男が信じられないくらいの苦痛を味わっていることが理解できた。ここの痛みが集合し、元の痛みを遙かに超える強大さでもって男を苛んでいるのだ。

男は苦しげな息を漏らしながら私の顔を見た。それから涙を流し、やっと息絶えた。まるで死ぬのを待っていたかのように、少し見えていただけの鼻血が男の顔を伝って流れ出した。

それからのことはよく憶えていない。病院に行って警察に話を聞かれたような気がするが、あれは警察署だったのかもしれない。まともに受け答えができたとも考えにくいのだが、すぐに解放されたことを思えば、あるいはちゃんと答えたのかもしれない。

後日、友人がアパートへ連れ帰ってくれたことを知ったが、そんな記憶はなかった。いや、家に帰り着いた記憶もない。次に記憶にあるのは、シャワーを浴びているところだ。出てみれば室内は暗くなっていて、夜になったのだと思ったとたんに自分が目にしたもののことを思い出したのだ。

マクドナルドの窓から飛び降りを目にして、半月ほどが過ぎた数日間はぼうっとしてしまって仕事が疎かになっていたものの、今ではそんな状態からも脱出していた。

いつもの朝。私は満員電車に揺られて事務所へ向かっていた。乗車率がどれくらいかは知らないが、いつもどおり猛烈に混んでいて、私はドアに押しつけられたまま身動きもできず、窓の外を流れる景色に目を向けていた。電車が揺れるたびに周囲の誰かが、苦しげな息を漏らす。暑さと寝不足のせいで、だんだん頭がぼんやりとしてくる。

ふと、遠くで何か素早く動くものが見えた。私は後方へ目を向けたが、もうなんだったか判らない。

しかし、それで意識が目覚めた。朝の白っぽく霞んだ風景が、再びきちんと認識され出す。

少ししてまた、離れた場所で素早く動くものがあった。今度はなんだか判った。誰かが飛び降りたのだ。そう気付いたとたん、全身が痒くなった。脂汗が吹き出してきたのだ。そうしている間にもまた、遠くに見える丘の上の大きな建物から誰かが飛び降りた。

幻覚だろうと思うしかない。それほど次々と、あ、まただ、誰かが建物から飛び降りていく。電車は私が気付いたことに気付いたかのように少し速度を上げ、飛び降りの光景をどんどん置き去りにしていく、ここは駅と駅の間隔が一番長い。まだ次の駅へは少しある。

私はどうにか少しだけ頭を動かして、自分の左右を見る。左側の女性はドアに背を預け、すぐ目の前に並んだ頭と頭の間から中吊り広告を眺めている。反対側では男が目を閉じ、立ったまま眠っている。それ以外の人間がどうしているかは判らない。が、普段どおりのじっとりと落ち着いた空気からして、他の誰も私が見た光景はめにしていないようだ。

そうしているうちにも、窓の外では何人もの人が飛び降り、気付けば私は無言で神に祈っていた。神よ。どうかこの事態を止めてください。人々が死ぬのを思いとどまらせてください。それが無理なら、落下する人が地面に衝突する瞬間、ふわりとその身を受け止めてやってください。

祈りながら自分がなぜ信仰を持つようになったのか、やっと理解できたと思った。飛び降り自殺を試みた人々が救われること、奇跡によって助かることを無意識に期待していたのだ。そうに違いない。

私は強い確信を持ちつつ、なおも祈った。祈れば祈るほど真剣さと確信は増した。だが、これまでの態度が悪かったのか奇跡などそうそう起きないものなのか、どうも誰一人として助かっている気がしない。これほどの異常事態にもかかわらず、車内は駅を出たときと変わらない。やはり幻覚なのだろうか。とてもそうは思えないが、そうだったらどれほどいいか。

電車が広い川を渡る。鉄橋の上からはとりわけ見通しがよい。これまでになく離れた、河川敷沿いのビルから誰かが飛び降りた。小さいシルエットにしか見えない。私は咄嗟に、その男性が助かるよう祈った。

するとやっと、奇跡が間に合った。今にも男が地面へ衝突するという寸前、その体がふわりと浮き上がったのだ。私は感動の念に貫かれた。が、男は宙に浮き上がったかと思うと猛スピードで一直線にこちらへむかって飛んできた。その姿の詳細を目が捉えるよりも早く、それは私の目の前のガラスに張り付いた。

それは、一番最初に飛び降り自殺を目撃した、あの男だった。顔を覆う切り傷はかさぶたになり、鼻の穴あたりで赤茶けた血が固まっている。折れた肩の骨が飛び出してスーツの裏地を押し上げている。頭は激突の衝撃で左右に膨らみ、後頭部へ行くほどその度合いは酷くなっている。両の目は見開かれ、濁った白目と生気を失って白みを帯びた瞳が、私を見据えている。

男はガラスに両手をついたまま動かない。ただじっと私を見ている。私は視線から逃れようとしたが、後ろに詰まった人々のせいで身動きが取れない。

そこで、再び私はなぜ自分が教会へ通い出したのか、2度目の認識転換を迎えた。神に守ってもらいたかったのだ。数センチ目の前の死者から。

私は祈りの言葉を唱えようとして驚愕した。こんな時、なんと唱えればいいのか判らないのだ。神よ、私を護りたまえ。ようやく浮かんだ語句にしがみつき、狂ったように繰り返し繰り返しその言葉を念じる。

だが、何も起きない。男の口の端が吊り上がって、私の焦りを嘲笑っているかのようだ。だが、ひょっとしたら最初から男の口元はそうなっていたのかもしれない。

私は祈った。なるべく体をドアから遠ざけ、恐怖に目を閉じることさえできずに。やがて、祈りを聞きつけたかのように電車が速度を落とした。男の周囲へ視線を走らせると、次の駅までもうすぐなのが判った。

なすすべもなく電車はホームへたどり着き、速度をさらに落とす。ブレーキの軋む音がひときわ高く聞こえ、止まった。ホームで並んだ人は誰も、ガラスに張り付いた死者に気付かない。

ドアが開く。その動きはいつもと同じはずなのに、酷くゆっくりとして感じられた。男の顔を覆っていたかさぶたが押しつけられたドアに引っ張られて剥がれ、そこから血が流れ出す。血は開きつつあるドアのガラスに、濁った筋を描いた。


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