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温泉地の喫茶店

ふと思い立って、山奥深くの温泉地へやって来た。
「何もない田舎ですが、ゆっくりしていってください」
私を部屋へ案内した女将はそう言って会釈した。

温泉地といっても古めかしい宿が1軒あるきりで、他には何もない。一応景勝とされる滝があるのだが、調べた限りではそれほど見るべきものでもないらしい。おまけに滝へ続く小道の入り口で300円取られる。

宿へ荷物を預けると、私はあたりを散歩することにした。宿の入り口に掲げられた、色あせたイラスト調のガイドマップによれば、宿の前の道をまっすぐ登ると登山道の入り口があり、途中の分岐を滝とは違う方へ進めばやがてこの一帯で一番高い山の山頂に出るという。まだ正午を回っていないので、気が向けばそこまで行ってもいいし、行かなくてもいい。

山沿い片側一車線の道を歩く。ときどき車がすぐ脇を通り抜ける以外は誰とも行き会わない。この辺りは村ということになっているが、実態は道沿いに家が点在しているだけだ。道の両側は杉林になっていて、特に見るものもない。杉木立が切れた場所も、谷を挟んで向かいの山が見えるだけだ。やけに真新しいガードレールぎりぎりまで歩み寄って覗いても、下の方はやはり木立にまぎれてよく見えない。前方は山と山との連なりに遮られている。空と、一塊になって木立の揺れ。夏とはいえ、風が涼しい。

しばらく歩くとガードレールとは逆側の斜面が削り取られ、生まれたスペースにまるで新興住宅街にでもありそうな二階建ての家が一軒あった。柵もない家の周囲には空の鉢植えが並んでいる。それなりの年数を経ているらしく、アイボリーの壁は雨水の作った灰色の筋がいくつも走っている。

一階のカーテンは閉ざされ、一枚は裏地に染みが大きく浮かび、もう一枚は中ほどから垂直に裂けている。その隙間の奥は暗くてよく見えない。網戸も方々が裂けていた。誰も住んでいないのだろうか。

不穏な家を過ぎてなおも進むと、今度はガードレール側が途切れてその向こうに地面があった。奥に赤茶色の瓦屋根を持つ、薄汚れた建物がある。地面と建物の間は駐車場のつもりらしく、一台の黒いスカイラインが停めてあった。 入り口の上の屋根には、手書きの看板が設置されている。あちこちが錆び、表面のブリキ板がはがれていて読み取りづらいが、「峠喫茶いわみ」と書かれている。ドアの脇には「営業中」の札が下がっていた。ここへ来て、宿屋以外に初めて入れる場所を見た。

少しのどが渇いていたこともあり、曇りガラスのはまった木のドアを開けて中へ入る。
「いらっしゃい」
カウンターの奥に立っていた男が声を掛けてくる。この店のマスターだろう。五〇歳は過ぎているように見える。眼鏡に短髪で口ひげを生やした、小太りの男だ。いちおう白シャツと黒いベストを身に着けている。下は黒いズボンだ。
「お好きな席にどうぞ」
マスターは客のいない店内を手で示し、途中で不意にその手を降ろした。不安そうな顔でこちらを見ている。
「悪いけど、三〇分くらい店番してて。コーヒーは適当に飲んでていいから」
早口でそう告げると、私が何か言う余裕も与えずマスターは外へ出て行った。外で車のドアの閉まる音がして、エンジン音が遠ざかる。

私は薄暗い店内を見回した。コーヒーとタバコ、ワックスと濡れ雑巾の臭いがする。掃除はされているようだが、積年の落ちない汚れが壁やビニル張りのソファに見て取れ、窓から入る弱い光に表面の細かな傷が浮き上がっている。

仕方がないので、適当に棚を漁ってコーヒー豆を探す。いくら田舎とはいえ、見ず知らずの客に店番を頼むというのはなんだかおかしい気がする。しかし、実際にマスターは出て行ってしまったし、まさかこんな所で隠しカメラを仕掛けて何か、ということもないだろう。

豆の入った袋の横に、ネスカフェ ゴールドブレンドの瓶があった。そちらをカップに入れ、お湯を注ぐ。喫茶店でインスタントコーヒーを飲むこともないのだが、豆を挽くところから自分でやるのも面倒だった。

とにかく静かだった。前の道を通りすぎる車の音がときどき聞こえるだけだ。有線かラジオでもないかと探してみたが、何もない。読みかけの朝日新聞が投げ出してあるので、手に取って眺める。ニュースはテレビかネットばかりなので、久しぶりにじっくり読むとずいぶん印象が違って見えた。

しばらくすると、誰かが入ってきた。マスターかと思って顔を上げると、違う男だった。背が高く痩せていて、四角張った顔立ち。歳は二〇歳後半くらいのようにも、四〇歳くらいのようにも見える。夏だというのにベージュっぽいロングコートを着ていた。痩せてはいるが、筋肉質なようだった。
「いらっしゃい。えーと、好きなところにどうぞ」
男は私の方を見ると、店の一番奥の席に座った。コートは着たままだ。とりあえずグラスに水を入れ、おしぼりと一緒に持っていく。
「マスターはいま出かけていて」
ブレンドくらいしか出せない、と言おうとしたところで男に遮られた。
「アイスコーヒー」
やたらと低く、芝居がかった声だ。うなずいてカウンターの向こうへ戻る。ダメもとで冷蔵庫を開けてみると、UCCの業務用アイスコーヒーのパックがあった。背の高いグラスに注ぎ、氷を入れる。ストローとガムシロップはすぐに見つかった。しかし、ミルクがない。
「あの、ミルクと砂糖は」
諦めて男に尋ねる。
「いや、いらな」
男は最後まで言えなかった。不意に目を見開いて自分の胸元をつかむ。一瞬で顔に汗が吹き出し、そのまま前のめりになりながら椅子から転げ落ちる。
「ちょっと大丈夫ですか」
駆け寄って体をゆするが、男は動かない。何も考えられず、しばらく無駄に体をゆする。視界が急速に狭まり、男とその周囲だけが見えて他は暗くなってしまう。だが、それも僅かなあいだのことだった。ドアの開く音と共に視界が元に戻る。

入ってきたのはマスターだった。
「違うんです。急に。救急車、救急車呼んで」
それが自分の声だと気づくのに、少し間があった。
マスターは動かない。驚きすぎて固まっているんだろうか。ひょっとして私が何かしたとでも。
「電話。救急車」
喋ろうとすると相変わらずうまく文章にならない。しかしマスターはただ、溜息をついただけだった。
「いや。大丈夫だ」
それから男に歩き寄り、心臓に手を当てる。それから手首に触れ、脈を測る。
「やっぱり」
落胆したようだった。なにがなんだか、さっぱり解らない。
「コーヒー飲む?」
もう男には興味をなくした様子だった。私の返事を待たず、勝手にコーヒーを入れはじめる。
「あの」
「死んでるよ」
当たり前のことのように言うと手を止め、ドアに近寄ってプレートを「CLOSE」に変える。

マスターは手馴れた様子でコーヒーを2杯入れると、一つを手渡してくれた。さっき飲んだインスタントとは香りが違う。

私たちは一言も口をきかず、黙ってコーヒーを飲んだ。なんという豆なのか、今まで飲んだこともないくらい酸味が強い。口の中が渋くなったが、少し落ち着いてきた。自然と目は床に倒れた男に向かう。床に転がったままのせいで、手足がバラバラに投げ出されている。こぼれたグラスの水が顔を濡らしていた。横目で見ると、マスターも男のことを眺めていた。

やがてコーヒーを飲み終えると、マスターは二人のカップを流しへ置いた。ついでに店の奥のドアを開けて戻ってくる。
「悪いけど、足持って」
マスターは男の頭の前に立つと、両手首をつかんだ。私も言われるままに足首をつかみ、二人で男を持ち上げる。私たちはマスターが開けたドアを潜り、奥の廊下へ男を運んだ。廊下の突き当たりに下へと降りる階段があった。ゆっくりと下っていく。
「いつもこうなんだ。私がいるからかとも思ったけど」
マスターは独り言のように言う。力の抜けた男の体は歩くたび不安定に揺れ、重たかった。

階段を降りると、大きな鉄の扉があった。マスターは男をそっと床におろすとドアを開けた。裸電球の弱い明かりと共に、冷気が流れ出す。冷凍室だ。ドアとの境目で空気が白い霧になってこちらへ這ってくる。

男を担いで中に入ると、何かが奥の方から隙間なく天井あたりまで積み上げられ、入口辺りにしかもうスペースが残っていなかった。

暗さに目が慣れる。霜に覆われびっしり詰め込まれていたのは、いま運んできたのとまったく同じ男の死体だった。服装も同じで、体内の水分が凍ったせいか少しむくんでいる。天井まで男で埋まっている奥側では、こちらに向けられた頭頂部か靴の裏しか見えない。上下入れ替えで交互に積まれているのだ。

呆然としていると、手が引っ張られた。マスターが男の手首を持って歩きはじめたのだ。私も足首を持ったまま、中へ入る。狭い空間で苦労して位置を入れ替わると、私たちは死体を、三人積まれた上に頭を前にして下ろした。外へ出て、マスターがドアを閉める。

無言で地上へ戻ると、冷房が効いているはずなのに暖かく感じられた。
「いつもこうなんだ。私がいるからかとも思ったけど」マスターがさっきと同じことを言う。「あの男が来る、死ぬ。この店を買った時からずっとそうだ。元々ここは精肉店だった。奥の冷凍室は商品を保管していたんだと思っていたが、必要なかったから改装もせず放っておいたんだ。ああ、そうじゃない。飲食店用に改装はしてあった。だから私でも買えたんだ。前の持ち主はもう亡くなったって話だった。
「最初にあいつがここへ来て死んだのは店を開いてすぐ。救急車を呼んで男を運ばせたよ。なのにまたあいつはやって来て、すぐ死んだ。わけが解らなかったが、同じ男が死んだなんて救急車を呼ぶのも怖かった。悩んだ末にあの冷凍室へ隠そうと思って死体を運んでみたらどうだ。馬鹿みたいに広い冷凍室なのに、もうあいつの死体で半分くらい埋まっていた。私が買う前からここはそうだったんだ。最近ではあいつが来そうなときは予感がする。色々やってみたよ。店を閉めたら店の前で死んだ。話しかけてもみた。他にも思いつく限りのことをしたけど、どうしても死ぬんだ」
足元に視線を落としたまま、マスターは淡々と語った。絶望と無力感に疲れ果て、すり減らされて何も残っていない声。信じがたい話だが、冷凍室で見た光景が浮かんできて否定できない。
「あの部屋が一杯になったらどうするんですか?」
思わずそう聞いていた。
「さあ」
マスターは口の端に笑みを乗せ、そこで初めて私に気づいたような顔をした。
「えっと、バイトの面接だったかな」
「いえ。ただの観光客です」
マスターはうなずいた。その顔に外向けの笑顔が張り付き、背筋が伸びる。急になにか生き生きとしたもので体の中が満たされたようだった。
「何もない田舎ですが、ゆっくりしていってください」
マスターはそう言うと会釈した。


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