「突然だけど出て行くことにします。テディベアだけは置いていくので、私と思ってかわいがってください K」
アパートへ帰るとそんな書き置きがあった。その傍らにはテディベアのぬいぐるみが。置いていくと言っても、そんな物が家にあった覚えはない。そもそもKって誰だ?
手掛かりがあるかもしれないと思ってテディベアを観察する。古い物らしく色は落ち、元々深い紅茶色だったらしいのが鹿毛色になっている。毛並みは乱れ、裡に抱え込んだ静電気を空中へ放出するかのように逆立っている。愛嬌のある顔は手作りらしく、目の位置が左右で僅かにずれている。だが、その歪みがこれまたやや傾いで付けられている鼻の形と合わさって、気難しい人間が不意に見せる笑顔のような一瞬の愛嬌をクマの顔に貼り付けていた。
手に取れば見た目よりも軽い。右手で首を持ち、裏返して爪に引っかかる毛並みを掻き分けても手掛かりどころかタグさえ見あたらない。
「そんなにおしりを突っつかないでよ」
手元から声がした。驚いてテディベアを取り落としそうになる。
「あっ、危ない」
妙に角のない声はぬいぐるみの声として漠然と想像されるイメージそのものだった。
慎重な手つきでぬいぐるみの顔をこちらへ向ける。
「やあ」
言ってテディベアは右手を上げた。筋肉に基づかない動作はどれだけ自然でも気味の悪さがあった。
「ぼくの右手を吸ってごらんよ」
それは唐突な言葉だった。テディベアは右手を差し伸ばす。
突き出された丸い、まるで手の切断手術から何年も経過したような先端を見ていると、ぬいぐるみはもう一度、同じ言葉を繰り返した。さっきよりもいっそう弾力のある声で。
なぜか自分が疲れ切っている気がした。耐え難い絶望に日々意欲を剥離させながら、もう長いこと癒されることを望んでいるという、曖昧だが堅苦しい衝動が裡へ芽生えるのが判る。
私は静かにぬいぐるみの手の端を口へ近づけ、先端を含んだ。口の中にグラニュー糖の味が拡がる。乾いていた化繊の毛が唾液に湿ると、毛の一本一本は姿を失い、朦朧とした粗雑さに溶け合う。グラニュー糖の甘さが気泡混じりの唾液と共に舌を刺す。涙が出てきた。力一杯吸うと抜けた化繊の毛が口蓋や喉に張り付き、ねっとりといがらっぽい不快さを生じさせる。
いつの間にか口の中はテディベアから抜けた毛でいっぱいになっていた。しかし丸まった先端は相変わらず豊かな毛で覆われ、吐き出そうとしても舌先は勝手に先端へ唾液を塗り、甘味を含んだ唾液を取り込む。徐々に意識はまとまりを無くし、Kが誰のことか頭の片隅が思い出したことも解らなくなってしまった。