建物から出ようとすると、外を歩いている人の中に傘をさしている人が混ざっていることに気付いた。ビニール傘は透明な表面越しに持ち主の顔をゆがめ、ナイロン傘は暗く沈んだ色とりどりの生地の向こうに持ち主の姿を隠しこんでいる。そうした人々のあいだを、傘をささない人々が平気な顔で歩いている。
私は目を細めて、弱々しい雨粒が見えないか試してみた。しかし、それらしいものはなにも捉えられない。ただ、道路が黒い上にも黒く濡れており、焦げたようなアスファルトの臭いがここまで漂っているような気がした。
外を通り過ぎていく人々の様子を窺いながら、私はどうするか少しのあいだ迷った。けっきょく、外へ出てみることにする。濡れるにしても、たいしたことにはならないはずだ。
雨は、降っていないようだった。見上げると重苦しい雲が空を覆っているが、なにも顔を濡らすものはない。それにしては傘をさしている人の数がみょうに多く、なんとも片付かない心持ちがする。
顔や肩をかすめる傘にときおり脅かされながら、私は歩きだした。すぐに気付いたのだが、どの傘も乾ききっている。雨が降っていたにしても、もうかなり前のことなのだ。私は何か、今の状況を説明してくれるものがないか周囲を見回した。しかし、それらしいものはない。
しばらく歩いていると、近くに住む知人と出会った。彼も傘をさしている。灰色の地に黒い格子模様が入った、あちこちにシワの寄った折りたたみ傘だ。
「珍しいな、こんな時間に」
彼は夜警をしており、こんな午後遅くに出歩いているはずはないのだ。本来なら家で寝ている時間だろう。
「銀行に行く用があって」
私はうなずく。
しばらくのあいだ世間話をした後で私は切り出した。
「そんなことより、傘」
「傘」
「そう、傘。雨はもう止んでるみたいだけど」
「止んでる」
傘や雨のことへ話が及ぶと、彼の表情はとたんに曖昧でボンヤリしたものになった。今にも目を閉じて眠ってしまうような様子だ。私は話題を、全然違うものに変えてみた。彼の表情がまた焦点のハッキリしたものになる。
「で、その傘」
「傘」
「その手に持ってる」
私は傘の軸を持つとゆさぶった。継ぎ手の所から、傘の先がいかにも安っぽくガクガク揺れる。
「ああ、うん」
彼は傘の方へ目も向けずに、虚ろな返事をする。口元に締まりがない。
しばらく雑談をしてから、私は彼と別れて家に戻った。居間のソファに腰を下ろし、考え込む。どうにも要領を得ない。やがて、ある実験が思い浮かぶ。私は折りたたみ傘をさすと、外へ出てみた。
再びさっきの方向へ戻ると、徐々に人が増えてきた。気のせいか、さっきよりも傘をさして歩いている人の割合が多いようだ。私はすぐに傘を畳んでしまう。場違いな人間を見るかのように、人々が私を盗み見るのだ。酷く気まずい思いで、私は傘を鞄にしまう。
当惑しながら歩いていると、銀行から戻ってきた知人と出会った。銀行はすぐそこの角を曲がった先にある。
「銀行の隣,なにが建つんだろうな?」
銀行の隣といえば、さっき私が出てきたばかりの場所だ。
「なにって、そのう」
とっさに言葉が出てこず、私は曖昧な仕草をする。
「まだ地鎮祭をやっただけだったけどな」
そんなはずはない。それとも、彼が喋っているのは別の場所なのだろうか。立ち話をする私たちのすぐそばを、開ききった傘がかすめる。
「空き地って、底の角曲がった先にある銀行の?」
知人はうなずく。私は知人をその場に残して、角を曲がってみた。
銀行が建っている。その隣には確かに…確かに5階建ての木造家屋が建っていた。よほど傷んでおり、腐ったような板壁のあちこちを疥癬めいたカビが覆っている。よく倒壊しないものだ。
と、私は根本的な問題に直面する。私はどこから出てきたのだろうか。そもそもその内部で、私はなにをしていたのだろうか。
表札のない家屋を呆然と眺めながら、私は立ちつくす。背後から急に、ばたばたと音がした。振り返れば道行く人々が一斉に、傘を開いてさすところだった。雨は一滴も降っていない。
いや、雨が降り出した。