汝の声あらん限りに叫ばば、その尽くるところに観音菩薩ありしも、
よりて汝は力尽き、常に機を失す
ノートと日誌の筆跡が同じだという事実は時間と共に少しずつ法一の精神を蝕み、勤務が明けるころには意識を制圧しそうになっていた。職場へ置いておくわけにもいかないのでノートを鞄へ放り込み、法一はひんやりとした湿気の残る朝の中へと出て行った。
まっすぐ家へ帰る代わりに、法一は浜松町駅で降りた。夜明けの名残をとどめた空気は、早くも夏の日差しによって蒸れはじめている。遠くに見える観音像は朝日を受けて顔に深い影が落ちている。蝉が鳴きだした。街路樹の下に力尽きた死骸が落ちている。通勤途中の会社員がやけに少ない。世間がお盆休みだということに法一はやっと気付く。
観音像の右のかかとにはやはり扉があった。中には木の机と年代物のラジオ。法一はノートを元あった引き出しの中へ戻すと、その場を後にした。
アパートに帰り着くと、法一はまず郵便受けをチェックした。中から20センチくらいの観音像が出てくる。手に取ると冷たい。堅く滑らかな触り心地だ。法一は慣れた様子で観音像を握りしめると、部屋に上がった。物の少ない部屋の中には、所狭しと大小様々な観音像が並べられている。燃えないゴミの日に出そうとして取りあえず置いておくうち、いつしか部屋に充満してしまったのだ。法一は手にした観音像をテレビの前の床に置く。
携帯が鳴った。番号に見覚えはない。法一は通話ボタンを押す。
「もしもし、俺だよ、俺」
聞き覚えのない声。
「観音菩薩だよ。中学時代に一緒だった」
もちろん、法一の中学時代にそんなクラスメートはいなかった。そのくせ、観音菩薩は懐かしそうに思い出話を繰り広げた。そのどれひとつとして、法一の記憶と食い違うものはなかった。
それにしても―
「観音菩薩なんて、そんな奴は知らない」
電話の相手は沈黙した。やがて遠雷が近付くように、笑い声が大きくなる。
「なんにも知らないんだな」
嘲笑と憎悪を隠そうともしない。通話は切れた。
法一は携帯を放り出し、ベッドに腰掛ける。
本来なら一番くつろげるはずの自室までがとうとう観音に占拠されてしまった。しかもそれはまだ続くのだ。どこを向いても半眼で口元にだけ微笑を浮かべ、曖昧な形に手を伸ばした観音像が視界に入る。穏やかさを装いながらも、その姿は何かを執拗に剥き出しにしている。もはや撮った写真が観音でいっぱいになるなどという段階はとうに越えている。光景を占める鈍色の像の割合は、もう4割を超えそうだ。そのどれもが一様に浮かべている表情。それがなんなのか不意に法一は気付く。嘲笑と憎悪だ。