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観音小説第2話:デンタルクリティーク

「鉄漿塗らむ」とて歯医者笑ふ

歯に空いた穴を放っておくわけにもいかないので、法一は掛かりつけの歯医者に向かった。マクドを出て大暑の中を歩いていると最初の驚きは薄れ、徐々に胸焼けと疲労感が高まってくる。

小さなビルの6階。エレベーターを降りると狭い廊下には薄く埃が積もり、壊れた三輪車が放置されている。安っぽいドアには「きびつ歯科診療所」というプラスチックのプレートが掛かっていた。中へ入ると、石原さとみに似た事務員が受付に立っている。
「こんにちわ」

そう言って微笑む彼女の歯は、ヘマタイトのような銀黒色をしていた。お歯黒を塗っているのだ。「お歯黒は虫歯予防になる」という院長の信念の元、きびつ歯科診療所ではスタッフ全員が歯に鉄漿(かね)を塗っている。患者の中にも院長の信念に取り込まれ、歯を黒くしている者がいた。

法一が来意を告げると事務員は一際大きな笑顔で黒い歯を覗かせ、待合室で座っているように言った。

法一の他に、待合室には三人の患者がいた。そのうち二人は歯に鉄漿が塗られている。ふとしたはずみに唇の間から見えるそれは蛍光灯の光を受け、視界の端でぬるぬると照り輝いた。

お歯黒をしているうち、一人は女性だった。地味なスーツに身を包んでいる。そして肌が異様に白かった。ときおり、襟元から真っ白な肌に彫り込まれた刺青が覗く。どうやら観音菩薩らしい。女性は法一の視線に気付くと、わずかに目を細めた。

しばらくすると法一の番が回ってきた。診察室に入り、台の上で横になる。診察室の中にいるスタッフは全員マスクをしているので、口元は見えない。

吉備津医師がやって来た。
「今日はどうしました?」
法一は受付で説明したことを繰り返した。
「じゃ、ちょっと口を開けてみてください」
言われたとおりにすると、吉備津医師は声を挙げた。
「ほ。これはみごとな。観音様ですな」

口の中へミラーが差し入れられる。医師は左手の指で法一の唇を押さえると、さらに口を押し広げた。吉備津医師の指は熱を持ち、はめているゴム手袋の臭いが強く漂った。

歯や唇に押し当てられるミラーの柄は生暖かい。吉備津医師は必要以上にそれを左右へ動かしながら、口の中を観察している。
「あー。キレイに取れてますね」
そう言うとミラーを口から出し、鏡面の曇りを拭った。
「ちょっと、ルーペ持ってきて」
助手が持ってきたルーペを受け取ると、吉備津医師は再びミラーを口の中へ差し入れた。右手でミラーを、左手でルーペを構えている。法一の唇を押さえているのは、歯科助手の指だ。吉備津医師の指とは違い、冷え切っている。
「穴の内側にねぇ、文字が書いてあるんですよ。せ、世尊妙相具、あー、我今重問彼、か。佛子我…観音経だな。こりゃ」
法一は思わず口を閉じそうになった。助手の指が震えるほどに力む。
「いやいや、最近こういうことが多くて。この前も親知らずを抜いた人がいて、その抜いた歯茎の内側に細かい溝がありましてね。写真に撮って拡大してみたら、なんとこれがソノシート。さっそく版を起こして再生してみたら…、なんだったと思います?」
法一の答えを待たず、吉備津医師は続ける。
「稲川淳二の怪談なんですよ。富士の樹海で念仏みたいな声に襲われたってやつ。これを本人じゃなしに、今は亡き桂米朝師匠がやりおるんですなあ。どうしてああいうものが歯の跡に出来るのか?ま、人体の神秘です」
一方的に喋りながらも、吉備津医師は手際よく歯の穴へ詰め物を施していく。

全ての治療が終わると、医師はノズルから噴出する水で法一の口の中を洗浄した。水はバキュームによってすぐに吸い出されていく。ただの水のはずだが、妙に鉄臭い。

治療が終わり診察室へ出たが、法一の後に来た患者はいないようだった。受付に行くと、事務員が何かを口に含んでいた。事務員は法一に見られていることに気付くと、口の中にあったものを小さな手の平へ吐き出した。

それはシェイクに入っていたのとよく似た、小さな観音像だった。長い時間口の中にあった観音像は唾液にまみれ、彼女の唇と細い唾液の糸で結ばれている。事務員は横目で法一を見た。瞳孔が開ききっている。彼女の口から伸びた唾液の糸は自らの重みで速度を増しながら細くなり、途切れた。彼女はゆっくりと指を曲げ、観音像と唾液を握りしめる。


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