広い家といえば、普通は広い部屋や空間があるはずだ。天井も高くて、陽当たりもよくて、手入れされた庭では季節の植物がさまざまな表情を見せている。
私の家もかなり広い。けれど、広い空間なんてどこにもない。先祖代々増改築を繰り返してきた母屋は、入り組んだ狭い廊下や小さな部屋が折り重なり浸食しあっている。4畳半の和室の半分が廊下と一体化していたりして、なんともあやふやな感じだ。
広い部屋といえば親族が集まるときに使う、二間続きの部屋くらいなもので、それも普段は、ふすまで10畳ずつに区切ってある。片方は仏間だ。
当然、外光が入らずに薄暗い区画もある。家中を独りで歩き回れるようになったのは、ようやく中学生になってからのことだ。それでもあまり立ち入らないような場所は、空気がカビでよどんだ臭いを漂わせていて、なんとも気味が悪い。ときどき、ひからびたネズミが死んでいたりもする。裸足で歩けば、湿ったホコリが足の裏にこびりついて腐ったフェルトのようになる。
そんな家に私は両親と弟と妹、そして祖父と住んでいた。祖母は私が小学生の時に他界した。
国鉄の職員をしていたという祖父は穏和な人だ。といっても内気というわけではなく、よく友人たちと国内のあちこちへ登山旅行に出かけている。暇なときはたいてい、旅行で撮った写真の整理や家の掃除、古びた場所の手入れをしていた。
その日私は母に言われて祖父を捜し、家の奥地を歩いていた。何十年何百年と日の差さない廊下を歩いていると、祖父は「かきりの間」と呼ばれる部屋の掃き掃除をしていた。
「おじいちゃん、お風呂入れますよって母さんが」
私が言うと祖父はかがめていた腰を真っ直ぐにして、大きく伸びをした。ぼんやりと照らされた畳の上に、影が頼りなく広がる。
「そうかそうか。ありがとうな」
私たちは並んで歩きだす。
「佳美ちゃん。悪いけどホウキとちりとり、片付けてくれないか」
私が箒とちりとりを受け取ると、祖父は廊下を脇道にそれて歩き去った。祖父の部屋へはそちらの方が近道なのだ。
掃除道具を片付けると、少しして私はトイレに行った。誰か入っている。私はドアを叩いた。中から祖父が返事をする。
「おじいちゃん、お風呂もう入ったの? まだ?」
「ああ? うん」
要領を得ない反応が返ってくる。
祖父と入れ替わりにトイレを済ませると、私は台所へ行った。
「おじいちゃんには会えた?」
夕飯の支度をしながら、母が尋ねる。
「うん。掃除してた」
「そう? さっき、台所にきて珍しく枝豆つまんでったんだけどねえ。昼間はあまり食欲がないなんて言ってたのに」
「おじいちゃんがどうかしたって?」
弟が入ってきた。弟は冷蔵庫を開けると中から牛乳を取り出し、グラスに注いだ。首からタオルを掛けていて、髪が濡れている。
「あれ、あんたお風呂入ってたの?」
私の言葉に弟はうなずく。
「おじいちゃん、まだお風呂入ってないのかな」
「たぶん。俺が風呂入る前に出かけてくの見たから」
私と母は目を見交わす。弟も妙な空気が漂っていることを察したようだった。
「ちょっと、おじいちゃん! おじいちゃん!」
私は大きな声で呼んだ。ややあって、足音が近づいてくる。
「どうした?」
祖父が部屋へ入ってくる。ただし、五人いた。私たち三人は言葉を取り落として、五人の祖父を見つめる。祖父はそれぞれ微妙に肌の色合いが異なるが、それ以外は完全に同じ外見をしていた。そのうち一人はこれから風呂に入るところだったらしく、シャツに股引という格好だった。
それ以来、我が家には穏和な祖父が五人いる。弟が出かけるところを目撃した祖父だけはどこへ行ったのか、けっきょく帰ってこなかった。