爆裂な風と共に手にしたビニ傘が裏返り、頼りないアルミの骨の先にからみつく。激しい夕立の雨粒が、辛うじて傘に隠れていた場所をあっというまに濡らしていく。夏の暖かい雨は雑巾で拭いた犬のような臭いだった。
シャッターが降りた図書館の庇の下へ駆け込んだときには靴の中に水が溜まり、服は着衣泳の後みたいに体を締め付けた。張り付いた服を指でつまんで引っ張ると、反対側がますます皮膚へ密着してくる。しばらくのあいだ脇の下や袖口、太股のあたりを引っ張り回してから、おれは快適さを諦めた。
雨はいつまでも降り止まない。天から地へと捨てられた雨粒はすじを成して下水へと落ちぶれていく。周りには誰もいない。雨音と遠雷。濡れた服が体温で暖まって、体が痒くなる。おれはTシャツの裾から手を入れて背中を掻いた。
入り口脇の大きな窓からは、図書館の中がよく見える。薄暗い館内は乾いていて居心地が良さそうだった。堅いカーペットの上を裸足で歩き、横になるところを想像する。足はゆっくりと乾いていくだろう。甘い古紙の匂いがするだろう。
ふと、一番奥の棚の向こうから何かがこちらを覗いている。どこか馴染みのある丸くて大きな頭、赤い服に覆われた腕。手には黄色い…手袋だろうか。さらに目をこらす。アンパンマンだ。アンパンマンが棚の影からこちらを覗いている。こちらを見つめ返す虚ろな黒い瞳。お互いを隔てているのは、無数の本だ。
しばらく息もできずに見つめ合う。ひときわ近くで雷が鳴った。強い光が差し入る。アンパンマンは一瞬の閃光に照らされ、実体感を失い、なんのことはない。段ボールで作られた、ただの看板だ。館員が立て掛けたまま、忘れていったのだろう。
「なにしてんの?」
突然、声を掛けられて慌てて振り向く。肩が窓ガラスにぶつかる。
そこに立っていたのは、高校で同じクラスの遠藤サヤカだ。全身が濡れていて、服が体の線を浮き上がらせている。その代わり、所々に余った布地が太くて大きなスジを作っていた。肩からさげたバッグも、ムラなく色が濃くなっていた。
「バスに乗ってたら雨が降ってきてさ、バス停から走ったんだけど」
そこでサヤカは自分を見下ろし、おれを見た。視線を真っ直ぐ受け止められず、おれは体ごと顔を背けると窓ガラスに寄りかかった。
「お前こそ、何しに来たんだ?」
「本返しに。あ、本、濡れてないかな」
少しして、堅い本が返却ポストに落ちる音が聞こえた。
「静かだね」
サヤカはおれの隣まで来ると言った。
「そうだな」
おれは前を見たまま答える。
「雨、止まないね」
「ああ」
こちらを覗くアンパンマンの姿がフラッシュバックする。
雨粒は太く、アスファルトに爆ぜて爆ぜて爆ぜて、一向に弱まらない。
急にサヤカの体温が漂ってくる。隣を見ると、サヤカもこちらを見ていた。おれはまた、前を向く。
サヤカとおれは、もう2か月も告白の手前に立ち尽くしていた。お互いに相手が好きだという態度を隠そうともしていない。でも、告白はしていないし付き合っているわけでもない。よく解らないけれど、手前で踏みとどまっている方が、下手に付き合ってしまうよりもむず痒くて、気持ちが悪くて、癖になる。そして気が付けば、二人ともそれが止められなくなってしまったのだ。
ひときわ雨脚が強くなる。細かな雨が降り込み、少し先の地面に跡を残す。冷たい風が全身をまさぐり、吹き去る。
「そういえば、気になる娘がいるから夏休み中に彼女を作るとか言ってたけど、どうなったの?」
「気になる娘」が自分だとよく知りながら、サヤカは尋ねてくる。
「そっちこそ、いい男を見付けるとかなんとか」
何度も繰り返されて発酵し、甘みの増した誘惑に乗る。まるで、どちらが限界ギリギリまで近付けるかを競い合っているようだ。そうやって近付けば近付くほど引力は増し、「うっかり告白してしまう」可能性はどこまでも高くなり、どこまでも言わないことの快感は強くなる。
「それがいい感じにはなるんだけど、あと一歩がさ、ダメで」
サヤカは意味ありげな視線を向けてくる。
それはまさに今のことだ。図書館で雨宿りをして降り続く夕立を並んで眺めながら、辺りには誰もいない、なんて状態のことだ。
一歩でも間違えれば自然な会話の流れに押し流されて、二人はハッキリと付き合いだしてしまいそうだ。そうすればどんなことでも平凡な恋人同士の言葉になってしまい、可能性は少なくなって。
「やっぱさ、キスとか他にも色々とすることになるのかな。付き合いだしたら」
「まあ、そうだろ」
「そういうの、したことないんだよね」
「おれもないな」
「そりゃ、あんたはね」
「お前だって」
無益な言い合いが続く。ふざけて叩き合うふり。でもそれは、お互い相手に触れるための言い訳でしかない。
日が暮れて、周りはますます薄暗くなってきた。もう少しで街灯が灯るだろう。雨は弱まって、地面に当たっても勢い良く弾けない。遠くの雲の切れ間から、夕日が差し込んでいる。
「キス、してみる?どんな感じか、試しに」
どんな感じか、試しに。それでキスをしようなんて、普通に考えればひどく不自然だ。でも、どういうつもりなのかは判る。サヤカは告白を迂回して、その向こう側に立とうとしているのだ。試しに、フリで、友達が言ってたんだけど、気になる人が。これは、そうした言葉の新しいバリエーションだ。
「そうだな。じゃあ、ちょっと」
なんでもないことのように答えると、おれはサヤカの肩を抱く。サヤカが着ているTシャツはまだ湿っぽく、冷えている。その下には見かけよりもずっと細くて堅い、肩の感触。サヤカが目を閉じて、軽く口を開いた。おれは唇を重ねる。サヤカは柔らかな唇を押しつけてくる。歯が唇に当たって痛い。
雨に濡れたサヤカの顔は夕立と同じ、雑巾で拭いた犬のような匂いだった。