どういうわけか歌舞伎の花道が延長された。それだけならまだしも、その延長上にうちの家があった。立ち退かずにいたら壁に穴を開けられ、家の中央を分断する形で花道が通されてしまった。だから、公演時間になると家の遙か向こうから派手な化粧を施し、重たげな和服を纏った歌舞伎役者が歩いてくる。歌舞伎役者は悠然と我が家の中を通過し、舞台へと歩き去る。
夜の公演はだいたいうちの夕飯の時間と重なるので、家族でおでんなどをつついていると、そのすぐ脇を役者が歩いていく。
役者は色々で、歌舞伎好きが観ればさぞ喜ぶんだろうが、あいにく我が家に歌舞伎に興味のある人間はいないので嬉しくも何ともない。
以前の私は家に帰るとまず風呂に入り、ステテコとシャツといった格好でくつろいでいたのだが、さすがに花道が通るとそういうわけにもいかない。妻もわざわざ化粧をしたりしていたのだが、じきに妻も私も面倒臭くなってしまって、元に戻った。
ある日、些細なことから高校2年生の娘と私は喧嘩になった。相手の話を聞かず、互いに大声を張り上げる。
すると、どこからか笛と鼓の音が聞こえてきた。私達は同時にはっとし、時計を見た。公演の時間だ。
やがて、いつもの道を役者が現れた。何の役だか知らないが、普段とは比べものにならないくらいの大袈裟な衣装を着ている。
私と娘は何となく役者を目で追った。と、信じられないことに役者が着物の裾を踏んで転んだ。呆気にとられて見ていると、役者は立ち上がろうとして手足をばたつかせた。裾から覗く足袋が変に白い。衣装が重すぎるせいで、役者は自力で立ち上がれなかった。俯せのままもがく役者の動きがどんどん苦しげになる。
首が襟に押さえられて持ち上がらないことにやっと気付いた私達は慌てて花道に上がり、彼を助け起こした。伝統の重みというのだろうか、役者は落ち着き払って私達に会釈をすると、そのまま歩き去った。
「いいか、こずえ。あんな大人になったらいかんぞ。いろんな意味でな」
私は遠ざかる歌舞伎役者の緋色の背中を見ながら言った。
言った私もいまいち意味の分からない発言だったが、娘も何となく私と同じものを感じたようで、素直にうなずいてくれた。
よほど遠ざかったところで歌舞伎役者がまた転んだ。私達は急いで花道に上ると、役者の元へ駆け寄った。