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副作用

一人の男が仕事を終え、家に帰る。生まれたときから住み慣れた、古い一軒家だ。両親が亡くなった今、家には男とその妻、高校生の息子ふたりと暮らしている。

家に帰るとポケットから鍵を取り出し、ろくに見もしないで鍵穴に刺そうとする。だが、刺さらない。そこで男の意識は初めて鍵穴と自分の手に向かう。もう一度、ちゃんと見て鍵穴へ鍵を刺す。だが、鍵は入り口からほんの少し入ったところで止まってしまう。真ん中を膨らませた普通の鍵なので、上下が違うということもない。何度か無駄にやってみて、ようやく男は諦めた。

今日、鍵を付け替えたんだろうか。ありえない気もするが、妻が言い忘れた可能性はある。男は少し不機嫌そうにドアを叩き、声をあげる。だが、中からは何の反応もない。しかたなく門を出てインターホンを押した。中からかすかに呼び出し音が聞こえる。それでも反応はない。嫌な予感が男の中でゆっくりと立ち上がる。

と、男はインターホン脇の表札に目を止めた。「安藤」。自分は河野であって安藤ではない。酔ってはいないしどこをどう見ても自分の家だ。だがその見知らぬ表札は何年も前からそこにあったかのようだ。

わけが解らないまま男はその場に立っていた。無意識のうちに右手をコートのポケットに入れ、さっきの鍵を握りしめている。

車が一台、ゆっくりとやってきて止まった。中からグレーのパンツスーツを着た、30歳くらいの女性が現れる。
「河野浩康さんですね?」
「はい。なにか」
「お話したいことがあります。一緒に来てもらえませんか?」
普段ならそんな怪しい誘いに従うわけはないのだが、どうしていいかすっかり判らなくなっていた浩康は女性の言葉に促されるまま、助手席に座った。車がゆっくりと走りだす。
「河野さんはSFお好きですか?」
運転しながら女性が尋ねる。低めの、すこしかすれたような声だ。
「いえ。特には。スター・ウォーズとかマトリックスくらいは観たことありますけど」
「そうですか」女は特に気にした様子もなく言った。「SFによくある展開で、現実のものだと思っていた記憶が実は他人に埋め込まれたものだというのがあるんです」
「はあ」浩康は言ってから、あまりに素っ気なかったと思って付け足す。「偽の記憶ですか」
「ええ。そうです」
馬鹿げた考えが浮かぶが無視する。話の流れが見えない。リラックスさせるための雑談だとしたら、あまりにも奇妙だ。
「どこへ行くんですか?」
浩康は話を変えることにした。車は今、大きな通りを南に走っている。
「あなたの会社へ」
会社という2文字が重くのしかかる。何かマズいことをしてしまっただろうか。慌てて記憶を引っ掻き回すが、心当たりはない。ただでさえ家のことで不安になったところで、仕事の上でも何かあったのかと心乱され、浩康はすっかり動揺してしまった。

女は一瞬だけ浩康に目を向けると、努めて平静な声で言った。
「少し前に、ある男が自ら開発中の薬品を以て姿を消しました。その薬を飲むと、想像が現実の記憶として脳に定着してしまうんです。元の記憶は消し去られて」
浩康が反応するまで、少しの間が空いた。家の鍵が途中で止まった時の軽い驚きが何倍もの衝撃となって頭の中で再生される。
「携帯を見てみてください。発着信やアドレス帳を」
浩康は自分の見慣れた携帯電話を取り出し、発着信履歴を調べた。そこには何もない。アドレス帳も同じだった。登録数ゼロ。
「そんな」
自宅の番号にかけてみたが、番号が使われていない旨を告げる録音ガイダンスが流れだした。もう一度、かけ直してみる。やはり結果は変わらない。今度は会社へ。やはり同じだ。

女は浩康が覚えている番号へ電話をしては使われていないことを知り焦燥と混乱を募らせているあいだも、ただ黙って運転を続けていた。
「着きました」
女が車を停めたとき、浩康は放心状態で携帯電話を片手に座っていた。

促されるまま出てみると、そこは勤めている会社のビルだった。4階建ての小さなものだ。外観は何も変わっていない。周囲も一緒だ。ただし、会社の入口に掲げられた社名が違う。それは浩康が知らない会社のものだった。裏手に回って勝手口のリーダーにカードキーをかざす。反応しない。傍らの自販機で女が何かを買った音で我に返る。もう一度音がする。女は缶コーヒーを2本手にしていた。
「車へ戻りましょう」
もはや無関係な会社の勝手口にいつまでも立っているのだと思うと、急に恐ろしくなった。ドアの斜め上にある監視カメラがはっきりと意識される。警備員に話しかけられるよりも先に、浩康たちは足早に車内へ戻った。

女が缶コーヒーを差し出し、車を出した。浩康は何も考えずに受け取り、口を付ける。味が少しも判らない。

女の話が嘘だと証明するものは何もなかった。ただ、本当だとする証拠もない。それでも、女の話が真実であると、そう思わせるなにかがあった。

もう車がどこへ向かっているのかなどどうでもよくなっていた。いつもの生活が消え去る感触はあまりに冷たく、恐ろしかった。浩康はその寒さで本当に体がこごえるのを感じた。座っていなければ倒れていただろう。

何もかも、実在しなかったんだ。そう思ってみる。すべては偽物で、あれほど鮮やかに思い出せる妻の顔も声も、暖かな手触りも重みも。今でもはっきり思い出せる、生まれた長男を初めて抱き上げたときの軽さと、言葉にならない喜びの重さも。家族みんなで過ごした思い出のすべてが。辛かったことも楽しかったことも。幸福も不幸もなにもかもが。

失ったもののすべてに、浩康は涙が溢れるのを止められなかった。まるで一瞬の事故のせいで家族や友人を失い、自分だけが生き残ってしまったような。たとえどれひとつ現実には起こらなかったことだとしても、記憶の中でそれは実際の出来事と何も変わらない。主観の上では、それらの事実がすべて無残に踏みにじられたとしか思えなかった。もう二度と、家族や友人に会えない。

浩康は気付くと声を挙げて泣いていた。息が苦しい。愛する者を、人生を失った嘆きなど人の力で止められるものではないのだ。

どれだけの時間が過ぎたのだろう。浩康がようやく泣きやんだとき、車は見知らぬ道を走っていた。泣きすぎで喉も頭も、肺までもが痛かった。涙に濡れた顔がひりつく。涙と一緒に思考能力も流れ出てしまったのか。今はぼんやりとして何も考えられない。一瞬、自分がどこにいて何をしていたのかさえ解らなくなりかけた。
「薬によってもたらされた記憶は現実と完璧に一緒です。だから、今どれほど辛い気持ちかは分かります」
女の言葉は浩康の意識の表面をただ流れ、暗闇へ滑り落ちて行った。
「奥様もひどく悲しんでおいででした」
奥様という言葉が、流れ落ちる寸前で意識に深々と突き刺さる。
「妻が、ですか? え?」
妻は実在したというのだろうか。その考えを浩康は全力で捕まえる。
「薬には奇妙な副作用があります」女はうなずくと続けた。「偽の記憶の一部が、実体化してしまうんです」
浩康は自分の姿が薄れだしていることに気づいた。浩康はすべてを悟る。実体化した偽の記憶の一部こそ、自分なのだ、と。

消え去る瞬間、浩康が最後に考えていたのは、妻が生きていてくれてよかった。ただそれだけだった。

女はコンビニの駐車場で車を止め、さっきまで男が座っていた助手席を眺めた。飲みかけの缶コーヒーが床に転がり、残っていた中身がこぼれている。

女は悲しみと怒りが胸の内で膨れ上がるのを感じていた。浩康は最後になにを考えていただろうかと、想像してみる。しかし、解るはずもなかった。ただせめて、心穏やかであればと祈った。夫や息子が偽の記憶の産物だと認め、泣き崩れた女性の姿を思い出す。薬を盗み、罪もない人々に身を裂くような苦しみをもたらした男を女は今すぐ殺してやりたかった。男は安藤という名前で、かつて女の恋人だった。

そもそも偽の記憶を生み出す薬も、それを開発して盗んだ安藤も、すべては女の想像であり、偽の記憶だった。安藤が薬を盗んで女に飲ませたせいで実在するようになってしまったのだ。

しかしそれでは、つじつまが合わない。それもこの薬の厄介な副作用なのだ。


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