気が狂ったのかと思った。いや、自分の、だ。
それでも手を抜かず信用を積み重ねてきたおかげだろう。もっと大きな仕事を任せてもらえることになり、先方へ打ち合わせがてら挨拶しに行くことになった。
打ち合わせ開始は19時。私は会社へ寄ってちょっとした仕事を済ませると、昼前にこちらを出発した。向こうへ着いたのは18時過ぎ。駅からはタクシーで向かった。そこそこ大きな街なのだが、そうは言っても地方都市。ちょうどいいバスがなかったのだ。歩けば30分以上はかかるだろう。
そんな場所にあるのに、相手の社屋はなかなか大きく新しかった。受付で名前を告げると、会議室に案内された。床には絨毯が敷かれ、壁もきちんとした壁だ。テナント企業ごとにレイアウトが変えられるよう取り外し可能な、プラスティックボードではない。ここは長く使うことを前提とした自社ビルなのだ。
ややあって、ノックの音がした。私は立ち上がって迎える。入ってきたのは向うの担当者、楠さんだ。
「どうもすみませんお待たせし」
言いながら入ってきた楠さんの言葉が止まる。私も反射的に「いえいえ本日は」などと言いかけたように思うが、やはり止まってしまった。
楠さんの顔は、私の顔とそっくりだったのだ。似ているというレベルじゃない。同じ、と言った方がいい。気が狂ったわけではないようで、楠さんも私の顔を見て絶句している。
先に気を取り直したのは楠さんの方だった。
「西山は少し遅れて来ます」
西山さんというのは楠さんの上司で、私も何度か楠さんが休みのときに電話やメールで遣り取りしたことがある。私の上司がそうだったように、楠さんの前は彼が担当者だった。それぞれの担当者が私と楠さんになったのは、ほぼ同じ時期だった。
私たちはそそくさと名刺を交換し、席に着いた。楠さんは正面を避け、少し右側に腰を下ろした。
「ええ、と。資料をお持ちしました」
持参した資料を楠さんに手渡す。
西山さんが来るのなら、先に話を始めるわけにもいかない。かといって、この状況で世間話をするのは無理だ。楠さんも同じ考えらしい。
私たちは異様な熱心さで資料に目を通すふりをしつつ、ときどき相手のことを盗み見ていた。何度見ても、見れば見るほど、お互いの顔に違いがないことを認識させられた。
「世界には自分と同じ顔の人間が3人いる」という言葉があるらしい。本当かどうかよく知らないが、そう言いたくなる気持ちは解る。私はどこにでも居そうな顔をしているせいか、人が大勢いる場所へ行くとたいてい1度か2度くらい、自分に似た人を見たと思うのだ。人の流れの合間からちらりと目にする程度なので実際によく見れば似ていないのだろうが、それでも驚いて足を止めてしまうときがある。
だが、今回はそれどころじゃない。相手はすぐ目の前に座っていて、じっくりと観察できるのだ。これまで2年ものあいだ、電話やネットを挟んで同じ顔をした人間と仕事をしてきたのかと思うと、なんとも気味が悪かった。
いや、それとも。嫌な考えが浮かぶ。自分で気付いていないだけで、相手が動揺してしまうほど異様な様子をしているんじゃないだろうか。そんなはずはない。それならここへ案内してくれた人がまず驚くはずだ。でも、これほど二人の顔が同じだというよりは、まだ受け入れやすい。
ドアがノックされた。私たちはそろって顔を上げ、ドアを見た。
「すみません前の会議が延びてしまって」
西山さんが入ってくる。電話の声から想像していたよりは若い。
「いえいえこちらこそお忙しいとこ」
また最後まで言えなかった。私の顔を見た西山さんが固まってしまったのだ。何か言おうとして開いていた口が、そのままになっている。
「あ、あの、その顔が……」
虚ろな声を出しながら、西山さんはそれでも懐から名刺入れを取り出した。条件反射だけで私たちは名刺を交換する。西山さんは私の前に座った。
「いや、失礼しました。驚きました。うん。楠とそっくりですね」ようやく気を取り直したのか、西山さんは快活に言った。「そっくりというか、同じだなあ。な?」
西山さんは楠さんに同意を求める。
「そう。そうなんですよ。いやこんなに似てる人には、ええ」
楠さんの声はややうわずっていた。
「すごい偶然ですよね」
なるべく落ち着いて言おうとしたのだが、最後のところで声が裏返りそうになった。おかげで、偶然かどうか質問しているみたいになってしまった。
「そりゃあ偶然でしょう。しかし、こうまで似てると御社に対して特別な縁を感じますね。実際に聞いてみると声までそっくりだ」
「「声?」」
同時に言って気まずい思い。だが、それで納得できた。これまで楠さんと電話で喋るたびに、私は違和感を覚えていたのだ。その理由が解った。録音された自分の声を聞いたときの感じ。あれだ。まさか相手が自分と同じ顔をしているなどとは想像してもいなかったので、まったく気付かなかったのだ。
「で、はい。これが資料」
西山さんが目の前に置かれていた資料を手に取ったので、私は説明に入った。まだ動揺していたが、喋ることは事前に練っていたので勝手に口が動いた。その後の話し合いも事前に想定していた内容ばかりだったので、スムーズに進んだ。終わる頃には、無事に提案した内容で発注してもらえることが確信できた。
打ち合わせが終わると、三人で飲みに行くことになった。そうなることは予想していたが、まさかこんなことになるとは思っていなかった。今はもう、すぐにでも帰りたかった。楠さんも同じ気持ちだったのだろうが、西山さんの誘いを断るわけにもいかない。二人も今日はわざわざタクシーで出社してきたのだというから、なおさらだ。
西山さんはわざわざ助手席に座って、私たちを後ろに二人、並ばせた。タクシーの運転手は私たちを見て一瞬だけ驚いた目をしたが、何も言わなかった。双子だとでも思ったのだろう。
西山さんオススメだという駅近くの飲み屋は、確かに酒も料理も美味かった。まだ動揺が収まらない私と楠さんは結構なペースで日本酒を飲み、それにつられて西山さんもハイペースで飲み、結果的に三人ともひどく酔っぱらってしまった。少し記憶が曖昧だが、西山さんはしきりに私たちを見比べては似ている似ていると言い、私たちもお互いを見て無闇に笑っていたように思う。「生き別れの双子の兄と再会したんですよ」と隣に座っていた関係ない女性に何度も言っていたのは、私だったか楠さんだったか。「もういいですよ、どっちがどっちでも。いっそのこと、明日っから職場を交代しましょう」と言っていたのも、そういえばどっちだったか思い出せない。まるで鏡を相手に飲んでいるような気持ちになって、自分がどちらなのか自分でも解らなくなっていたような気がする。服を取り替えようと言っている横で飲み屋の大将が苦笑していたのはハッキリ覚えているのだが、どちらの言葉だったのか、それも曖昧だ。そのせいもあって、酔った頭はますます自分がどちらなのか判断できなくなっていったのだ。思い返せば、あのとき私たちは本当に入れ替わったのかもしれない。自分は本当は楠さんなのではないか。いや、そんなはずはないのだが、馬鹿にして笑い飛ばせるだけの自信が持てない。
ともかくも、店を出る頃にはずいぶん夜が更けていた。私はタクシーに乗った二人を見送ると歩いて駅へ戻った。駅を挟んで反対側にビジネスホテルがあり、そこへ泊まるつもりだったのだ。予約はしていなかったが、まあ大丈夫だろうと考えていた。
しかし着いてみるとホテルは暗く、ドアが閉ざされていた。一気に酔いが醒める。ドアには一枚の張り紙が。手書きの文字を苦労して目で追うと、どうやらつい先日、倒産したらしい。急に夜風が肌寒く感じられた。周囲を見回すと、いつの間にか霧が立ちこめていた。おそらく回送だろうが、通りの向うで霧を透かしてバスが一台、ゆっくり通り過ぎていくのが見えた。見間違いだろうが、バスは何かを鎖につないで引っ張っているようだった。よく見えない。人か仔牛か。とにかく、そう、まだ酔っぱらっているらしい。
私は手近なコンビニに入ると1リットル入りのお茶を買った。半分ほど一気に飲み干したところで携帯電話を取り出し、あれこれ検索してみた。運良く近いところに漫画喫茶が1件あった。
私は飲みかけのお茶をバッグへ放り込むとコンビニを出た。
漫画喫茶は小さな雑居ビルの3階にあった。古ぼけて臭いエレベーターを降りるといきなりレジ。そこで「朝までコース1500円」を申し込むと、奥へ通された。むりやり壁際に詰め込まれた本棚へ漫画本が押し込められている。フロアの中央には、背の低いパーティクルボードで区切られた個室。見える範囲では一つしか人は入っていないようだった。指定されたのはそのこしつのとなりだった。個室へ入ると脇にバッグを投げだし、背広を脱いでドア裏のハンガーに吊す。ドリンクバーで熱いお茶を注ぎ、適当に漫画を何冊かピックアップして自分の個室へ戻ると、ようやく落ち着くことができた。熱いお茶をペナペナの紙コップからちびちびすすっていると、熱がじんわり体中へ拡がっていく感じがした。スプリングが緩くなったソファへ体を預け、目を閉じる。
さっきまでの体験が、緩慢に頭の中をめぐる。冷静に考えてみれば、取引先の担当者が自分と同じ顔だったとして、だから何だというのか。死ぬワケじゃない。よく知らないが。
隣の個室のドアが開いた。足音が私のドアの前を通り過ぎ、本棚へと向かう。そういえば、せっかく持ってきた漫画を読んでいない。私は一番上にあった『おせん』を手に取るとページをめくり始めた。しかし、たいして読まないうちにトイレへ行きたくなってきた。私は漫画を狭いテーブルの上に戻すと、個室を出た。
ふと本棚の方を見ると、さっき出て行った客が戻ってくるところだった。
「あれ?どうしたんですかこんなところで。戻っ」
そこに居たのが楠さんだったと思ったのだ。そうじゃなかった。さっきまでとは違うスーツを着ているし、よく見えないが胸元に社員バッジを着けている。しかし、顔は私だ。酔っているのか、気が狂っているのか。
違う。向うもこちらの顔を見て、あきらかに驚愕している。不審に思ったらしい店員が視界へ入ってくる。店員も私を見て動きを止めた。私たちの顔を見比べているが見比べるまでもなくそれは同じ顔をした二人だ。私は客と店員に背を向け、何事もなかったかのような態度でトイレへ入っていった。出てくると隣の個室のドアは閉まっており、店員も姿を消していた。私は自分の個室へ戻ると、立ったままぬるくなったお茶を飲み干し、代りを注いできた。漫画を読む気などもうなくなっていた。薄いしきりを一枚隔てた向うで、私と同じ顔をした知らない男がじっと座っているかと思うと、なんだか体のそちら側がむず痒くなるようだった。口の中を火傷しながらお茶を飲んでしまうと、私は携帯電話の目覚ましをセットして目を閉じ、そのまま眠りに落ちた。
翌朝、目を覚ました私はそのまま会社へ向かった。前日のうちに上司へは首尾よく行ったと報告しておいたのだが、あらためて詳しい話をしなければならない。昨日の経験はもちろん鮮明に覚えていたが、寝ている間に脳が上手いこと折り合いを付けたらしく、そこまで心乱されることはなかった。
会社へ着いたのは昼前。さすがに少し疲れている。今日が金曜日でよかった。そう思いつつ上司の所へ行くと、昼飯を取りつつ話をしようと言われた。特に反対する理由もなかったので、そのまま二人で食事へ。私は雑談も交えつつ、打ち合わせの内容と今後の方針を述べた。もちろん、楠さんや名も知らぬ男が私と同じ顔だったことは黙っていた。言ってどうなるものでもない。ひょっとして上司は楠さんが私そっくりだということを知っていたのではないか。そんな考えも浮かんだが、確認する気になれなかった。それに、楠さんに担当が変わった時期を思えば知っていた可能性は低い。
ともかく私は与えられた勤めを無事に果たした。その日の残りは楠さんたちにお礼のメールを書いたり、打ち合わせの内容をまとめたりして過ごし、珍しく定時に会社を出た。普段はもっと遅い。
久々に早い時間に駅へ行ってみると、ホームはけっこう混んでいた。金曜日だからなのか、いつもこの時間帯はそうなのか、よく知らないが。世の
中にはこんな早い時間に帰る人がたくさんいるという事実に、なぜか軽いショックを覚える。
当然ながら座れはしなかったが、車両の中程にある吊革を一つ確保できた。目の前の網棚にバッグを乗せようとして妙に重いことを不思議に感じ、そういえば昨夜コンビニで買ったお茶が入れっぱなしになっていたことを思い出した。すっかり飲むのを忘れていた。やはり疲れているらしい。電車が発車する頃には、車内はかなり混雑していた。私は吊革をつかんだ手にもたれかかるようにして目を閉じる。
そのまま寝ていたようだ。目を開けると数駅分進んでいた。体の感じる圧迫は減っていない。体温と吐く息と体臭と汗。臭いのせいで熱いのか、熱さが臭うのか。立っている場所からは見えないところで誰かが喋っている。時々は笑い声も。若い女と中年の男の声だと思っていたが、よくよく聞いているうちに年配の女性と若い男の声のような気がしてくる。
後頭部に何かの触れる感触があった。私は右を向いて頭の位置を変える。見える範囲の男と女と女と男と男と男と女。ちょっと大きく電車が揺れ、人のカーテンに隙間ができた。少し遠くまで見通せるようになった。その先に、私の横顔。誰だか知らないが、まただ。私は慌てて正面を向いた。さっきより強く何か硬いものが後頭部を押す。しかたなく今度は左を向いた。すぐそこに若い女性が立っている。女性は私の視線に気付くとこちらへ向かって不快そうな視線を投げてきた。しばらく耐えていたが、やがて耐えきれなくなって私は逆を向く。相変わらず自分の横顔が数メートル先に見えている。向うは正面を見据えており、私に気付いている様子はない。しかし今にもこちらを見て、正面から視線がぶつかり合うんじゃないかという気がしてならない。私はできるだけ顔を下へ向けると、目を閉じた。電車が少し大きく揺れるたび、硬い何かが側頭部に触れた。携帯電話だろうか。腕時計かもしれない。
やがて、電車が駅へ着いた。私はホームへ降りると、ずいぶん人の減った車内に目を向けた。ここまでのどこかで降りてしまったのか、あの男の姿は見えなかった。私は改札へ向かって歩きだす。
そもそも、私と同じ顔をした男など居なかったのかもしれない。これまでと違って、誰か他の人が私たちの顔を見て驚いたワケじゃないのだ。だとすれば、たんに疲れと昨日の出来事のせいで、他人の顔がそんなふうに見えただけなのかもしれない。今まで幻覚を見たことはないけれど、自分と同じ顔をした人と24時間ほどのうちに3回も出会ったというよりは、マシな気がした。なにがどうマシなのかは、よく知らないが。
改札を抜け、商店街を通り、住宅街へ差し掛かる。何年も通い慣れた道なので、足が勝手に動いていく。同じ方向へ歩いていく人の姿が一人減り、二人減る。やがて、住んでいるマンションの裏手に出た。駅から帰ってくるとマンションの裏から正面へ回ることになる。
部屋は8階にある。といっても、自分で買ったわけじゃない。両親が買った、つまりは実家なのだ。修繕されてこそいるが、やはり古い感じはある。
とはいえ、父は10年近く前に亡くなったし、母も一昨年、60歳を前に亡くなった。私は隣の市のアパートで一人暮らしをしていたが、母の死を切っ掛けに戻ってきたのだ。
マンションの裏手からは廊下と並んだドアが丸見えになっている。私が子供の頃はこちらからも廊下へ上がれたのだが、いつの頃からか不審者やセールスマンが勝手に入って来ないよう、廊下へ上がる階段は封鎖されてしまった。
正面に回ると郵便受けをのぞいてチラシやらDMやらを手に階段を上がる。鍵穴に鍵を差し、回してからドアを開ける。開かない。もう一度鍵穴に鍵を差して回す。今度は開いた。鍵をかけ忘れていたんだろうか。それとも今、開けるつもりで閉める方に鍵を回したのか。自分がどちらへ鍵を回したか、そもそも一昨日、出掛けるときにちゃんと鍵を閉めたのか。思い出そうとしてみたが、ハッキリしない。諦めて中へ入る。
部屋を奥まで進み、鞄を床へ置いたところでふと違和感に気付いた。辺りを見回して、正体を確かめようとする。空き巣が何か持っていったのだろうか。しかし、見る限り何もなくなっていない。そうじゃなく、もっとこう…。
そこで気付いた。空気が妙に生暖かく湿っぽい。梅雨時に一日締め切っていたところへ帰宅したような。だが、今は梅雨じゃないしこのところ天気もよかった。部屋の空気はもっと涼しく、乾いているはずだ。
それに、ただ蒸し暑いだけじゃない。独特の臭いというか肌触りというか、よく知らないけれど、いわゆる「空気が悪い」という感じだ。
まったく体験したことのない感じ、というわけでもない。なんとなく似たようなことがあった。私は記憶の中を探りながら、部屋の窓を開けて回る。いつだったろうか。そのときも確か私はこうして窓を開け、換気をした。窓の外から11月のひんやりした空気が流れ込んできて、一つの記憶が浮かんでくる。
いつだったか。たぶん学生の頃のことだ。ある日、一人暮らしをしていた私がアパートへ帰ってみると、後輩が何人か遊びに来て、勝手に上がり込んでいた。田舎の大学だったし昔のことだったので、いちいちドアの鍵など掛けたりしていなかったのだ。六畳一間の狭い部屋に男ばかり5人くらい。寒かったのだろう。いつから居たのか、タバコの煙で濁った空気の中、コタツに入って酒を飲んでいた。そうだ。酒やタバコの臭いこそしないが、あのときの空気に似ている。吐き捨てられた息の臭いだ。
不意に全身の皮膚が引き締まり、鳥肌が立った。誰かがうちに居たのだ。いや、まだ居るのかもしれない。一瞬、どうすればいいのか解らなくなって頭が空白に包まれた。それから私は足音を忍ばせて台所へ行くと、コンロの上に置いてあったフライパンをつかんだ。そのまま玄関へ戻り、サンダルを履いて廊下へ出る。
さて、どうしよう。疲れのせいもあって、上手く頭が回らない。全身を脂っぽい汗が覆っている。警察へ電話するか。両隣のどちらかの家に相談するか。この辺に住んでいる友人に来てもらうか。で、誰もいなかったら?気まずいどころの話じゃない。今の自分の精神状態を思えばちゃんと、というか、事態を最小限に留められる自信がない。というのでまともな思考になっているのかもハッキリしない。
しばらくフライパン片手に寒さをガマンしていたが、もう限界だった。安全を確保するためにあれこれ考えたり行動するくらいなら、侵入者に刺されてもいいから部屋で休みたい。そんな気になった。なぜだか惨めで泣きそうだった。
なんといっても生まれ育った場所なので、人が隠れられそうな場所はよく知っている。私は無造作にそうした場所を見て回った。けっきょく、誰もいない。こもっていた悪い空気はすべて換気されてしまい、あれほど濃厚だった気配が錯覚のようだった。
そこまでは覚えている。よく知らないが、それからスーツを脱ぎ捨て、横になったまま眠ってしまったような記憶がある。目覚めると土曜日の午後遅くだった。
シャワーを浴びて冷蔵庫に入っていたクリスタルガイザーの残りを一気飲みすると、ようやく意識がはっきりしてきた。なぜかHDDレコーダーに録画されていた先週の『王様のブランチ』を観つつ「にゅうめん」を食べていると、出張から昨夜までの出来事がすべて夢だったように思えてくる。
と、そこでにゅうめんを口に運びかけた手が止まる。テレビの中では、はしのえみがオープンしたばかりのショッピングモールでSHIHOと喋っていた。
どうも混乱しているらしい。うわのそらで王様のブランチを眺めつつ、にゅうめんを食べ続ける。いや待て落ち着け。まあその、まだ疲れてるんだろう。風呂にでも入れば気分もスッキリするだろう。いや、シャワーを浴びたばっかりか。
いつの間にか目の前の丼が空になっていた。食べた覚えはないのに、満腹感と空になった丼。
一人で家にいるのも気が滅入るので、唯一まだ近所に住んでいる子供の頃からの友人に電話してみる。飲みにでも誘うつもりだったのだ。よく行く飲み屋は5時から営業なので、あと2時間くらいで開く。
しかしタイミング悪く、友人は嫁さんと映画を観に新宿にいるとのことだった。しかたないので、そのまま携帯サイトを見て時間を潰す。いつもの巡回ルートを経てから2chのオカ板でここ数日の体験をネタにスレ立てしたら意外と伸び、いつの間にか日が暮れていた。
ずっと携帯の小さな画面を見ていたので目がショボショボする。なんとなく呆然とした思いで辺りを見回すと、部屋の静けさが重たく感じられた。
急に耳障りな金属音が響いた。誰かが鍵のかかったままのドアを開けようとしているらしい。がちゃ、ガタン……がちゃ、ガタンダン。私は足音を忍ばせてドアに近づくと、レンズ越しに外をうかがった。
最初に物音を耳にした時点で、レンズの向こうに立っている人物を私は半ば確信していた。見えたのは私の顔だ。魚眼レンズで歪んでいるが、見間違えようもない。男はなおもドアを開けようとし、ポケットを探り、またドアを開けようとし、やがて首をかしげるとポケットに手をやりながら視界から出て行った。よく知らないが、まるで鍵を掛けずに家を出たのに閉め出されたか、鍵が見つからないからドアを施錠してないんじゃないかと思っている様子だった。
私は椅子の背に掛けてあったジャケットを着ると、携帯電話と財布を持って家を出た。とにかくあの男が戻ってくるかと思うと、そこにいられなかったのだ。出て少ししてから鍵を掛け忘れたことに気づいたが、戻る気にはなれなかった。
私は駅前のキャバクラで、さんざんに酒を飲んだ。今まで一人でキャバクラに行ったことなんてなかったのだが、とにかく酒と話し相手が欲しかったのだ。
「いや驚いたって。打ち合わせしに出張したら、相手が自分とそっくりだったんだから。それ知らずにずっとメールで仕事してたんだよ」
私は面白いことみたいにそう言った。隣に座っている女の子はとても興味深そうに聞いている。仕事だからだろうけれど、自分が本当に面白いネタを披露したような気分になる。
「私も前にバイト先で、よく似た人がいたんですよ。一緒とかじゃないんですけど、姉妹くらいかな」
女の子は調子を合わせてくれる。私は彼女の話に耳を傾けながら、いつにないペースでグラスを空にした。飲み放題だし。2回?3回?とにかく延長して、どうにか財布の中の金がマズいということだけは理解できたので、支払いを済ませて店を出た。
気分良く喋り、酷く酔っぱらったせいもあって、マンションへ向かう足取りは軽かった。いや、フラフラしていた。軽いのは気分だ。もうどうでもいいというか、自分と同じ顔したヤツが周りをウロウロしてたからって、どうだっていうんだ。死ぬわけじゃあるまいし。だいたい、さっきから歩いてる人間の半分くらいは自分と一緒の顔してるじゃないか、あ、いやっは、ああ、それは酔ってるせいか。いやいや、うん。
私は途中、コンビニでペットボトルのお茶を買うと、店の前で飲み干した。何茶を買ったかは覚えてない。1本だけ買ったはずなのに2本あった。かまわずそれも飲み干すと、勢いよくゴミ箱へ捨てる。ようやく少し落ち着いた。そのまま、まだ少しフラつく足でマンションへ向かった。
マンションの裏手まで来て、ふと私はあの男のことが気になった。ひょっとして部屋にいるんじゃないか。電気が点いてるんじゃないかと思って見上げる。
幸い、電気は点いていなかった。しかし、気のせいだろうか。ドアがちょうど閉まったように見えたのだ。私はその場に立ち止まってしばらく様子を見ていた。が、何も起こらない。
私は階段をゆっくりと上り、廊下を進み、ドアの前で立ち止まった。なんとなく、開ける気がしない。店を出たときの気分はもう消えていた。中からは物音一つしない。いつまでもこうして立っているわけにはいかない私は思い切ってドアを開けた。
暖かい空気が私の顔に当たった。見れば玄関先までほぼみっしり、こちらに背を向け無数の男が立っている。男たちは身動きしない。誰も彼も同じ服装、同じ見かけだ。ほとんど見たことないが、それはそう、私の後ろ姿だ。服装も、今私が着ている服と同じ。
外廊下から足音が近づいてくる。私はそちらへ顔を向けた。私と同じ外見の男が、ちょうど角を曲がって来た。目が合う。私は首を振った。男は一瞬だけ驚いた顔のまま固まっていたが、やがて引き返していった。私は遠ざかる足が聞こえなくなるまで耳を澄ませてから、ようやく中へ足を踏み入れた。空いていたスペースは私で一杯になってしまった。もう誰も入る余地はない。背後でドアが閉まる。私は後ろ手にそっと鍵を閉めた。空気中の私の気配が、私の臭いが濃さを増す。
すぐ目の前、ほとんど見えないくらいのかすかな明かりに浮かび上がる私の後頭部を見詰めたまま、私はいつまでも立ち尽くした。