他に誰もいない広く真っ直ぐな道を、制限速度など気にせずにトバした経験はあるだろうか?エンジンがあまりに速く回転しすぎて静止状態と見分けがつかなくなる一瞬を、まるで脈打つエンジンを焼けるのもかまわず両手で掲げているかのように感じる一瞬を、感じたことはあるだろうか?
残念なことに、私にそんな経験はない。確かにオーストラリアで夜中、砂漠を貫く一本道をかなりの速度で走ってはいたが、いたって単調な経験だった。少しばかり脚に力を加えると、周囲の景色が勝手に後ろへ流れていくのだ。目で確かめられないからハッキリしないが、タイヤが回転しているかどうかも怪しいものだった。ラジオからは聞き覚えのない曲が流れ、合間に誰かがすごい勢いで喋っているが、私は英語が得意ではない。まあ、昔から喋りたい奴には好きなだけ喋らせることにしているので、放っておくだけのことだ。嫌ならスイッチを切ればいいだけのことだし。
どうやら動いていたのは風景ではなく、ちゃんと自動車の方だったらしい。その証拠に突然大きな音がし、車は衝撃を受けた。私は対向車線まではみ出しながらもなんとかコントロールを取り戻し、自動車を路肩へ停めた。どうやって砂漠へ突っ込まずに済んだのかは思い出せない。ただ、急激に分泌されたアドレナリン等々のせいで、どことなく脳がむずがゆく感じられた。
何かをひいてしまったらしい。生き物か、それ以外か。よほど動揺していたのだろう。しばらく私は窓の外の闇へ目を向け、「それは生き物ですか?ゲーム」をしていた。はいかいいえで答えられる質問をしていき、出題者が思い浮かべているものを最初に当てた人が勝ちという、あのゲームだ。「自動車がひいたのは生き物ですか?」もちろん、答えなんか出るはずもない
人間でないだろうことは明らかだった。こんな時間にこんな場所だ。誰かが道の真ん中を歩いているわけがない。となると、野生動物かトラックから落ちた積み荷か…。私はUターンすると、元来た道をゆっくり引き返してみた。
少し戻ると、道路の外で男がうつぶせに倒れていた。急に耳鳴りがして、視界が狭くなる。人をひいてしまった。その言葉が巨大なネオンサインのように、頭の中で明滅する。このまま逃げてしまおうか。脳裏のネオンサインを呆然と眺めながら、そんなことを考える。しかし、男を放ったまま立ち去るのも、それはそれで気持ち悪い。私はしばらく迷ったあげく、車から降りた。
砂漠の夜はかなり寒い。濡れて体へ張り付いた服が、急激に体温を奪っていく。私はそれで初めて、自分が汗だくになっていたことに気付いた。
自動車の前に回ってみる。前面に取り付けられたガードのおかげで、車体に傷はない。私はもう一度、男を見遣った。互いの距離は数メートル。これが数キロならば問題ない。気付かないところで勝手に死んでいればいいのだ。だが、そうじゃない。自分と死体のあいだには、これ以上ないくらいの緊密な関係がある。
どれくらい死体を眺めていただろうか。寒さに耐えきれなくなった私はいったん車内に戻った。そこからあらためて死体を観察する。ガラス窓を間に挟んでも、やはり死体と私との関係は何も変わらない。ネオンサインはまだ輝き、他には何も考えられない。私はようやく決心を付けると、外へ出て死体へ歩き寄った。
自分のつま先のすぐそばで、人が死んでいる。どうすればいいか判らなかった。とりあえず呼びかけてみたが、返事があるわけもない。我に返ると無意識のうちに死体へ、つま先で砂をかけていた。慌てて足を止めるが、すでに肩から腕にかけて砂が少し積もっている。さすがに手で払う気にはなれず、私は死体の腕をつかむと、ひっくり返した。そのときは砂を体から落とすことに気を取られるあまり、結果として死体の顔と対面することになるなどとは思いもしなかった。死体があおむけになる途中でそのことに気付いたが、手はそのまま動き、私は死体の顔を目にした。
驚いたことに、死体は私だった。いや、驚いたかどうかさえ定かではない。ともかくも死んでいたのは私とまったく同じ外見の人物だった。目立った外傷はない。服を脱がせれば胸が大きくへこんでいるのかもしれないが。自分をひいたとなると自殺になるのか。肉体は別だから殺人なのだろうか。かなり混乱していた私は、そんなことをわりと真剣に考えていた。
突然、死体が目を開き立ち上がった。私は逃げ出すのと飛び上がるのとを同時に行おうとして転んでしまった。後ろ向きに倒れ込む。今度は向こうがこちらを見下ろす番だった。
「いや、危害を加えるつもりはないから。大丈夫だって」
男は言った。私は言葉が出てこず、口を開けたり閉めたりした。
「いやいや、私が誰かって話だろ?ま、神だな。あるいはお前を装った宇宙人か、アボリジニに伝わる伝説の存在か。そ、れ、と、も?なんだろうな。狸か狐が化けているのか」男の喋り方は私とそっくりだった。「ま、どのみちそれはどうでもいいってことだ」
「なら、あんな出て来かたしなくってもいいだろ。なにひかれてんだよ」
私は怒りにまかせて言った。自分と寸分違わないように見える相手から馬鹿にされた経験はあるだろうか?私は、ある。かなり不愉快だ。
「いきなり助手席に現れろって?事故るだけだろ。道路脇でヒッチハイカーのフリでもするか?見落とされるのがオチだろう」
男は落ち着き払って言い返した。
「ま、たしかに」
私はなるべく落ち着いて答えると、立ち上がった。いったん腹を立てたことで、恐怖は薄れていた。代わって猜疑心が芽生えている。
「ともあれ、ま、無事で良かった。無事だった以上、もう用はない。じゃあ、元気でな」
私は男に別れを告げ、車へ戻ろうとした。当然、呼び止められる。
数分後、私は助手席に男を乗せて車を走らせていた。二人とも黙っている。不思議なもので、相手も自分なのだと思うとまったく気を遣う気になれず、沈黙も苦にならなかった。黙っていたいなら、好きなだけ黙っていればいい。相変わらず正視した車の周囲を風景が動いているように感じられた。ラジオからは音楽とお喋りとが絶えることなく聞こえてくる。
「何の用なんだ?」
とうとう私は尋ねた。
「用?いや、特にないな」
「じゃあ、どうすれば消えてくれるんだ?」
「消える?そういう考えはなかったな」
「ならなにか?特に目的もなく現れた、と?現れることが目的だったとでも?それが果たされた今、もうすることはないとでも」
「陸地が存在するのに、理由はあっても目的はない。似たようなものだ」
男の声は、やや自信がなさそうだった。
「なら、その理由ってのを…いや、いい。それはこの際どうでもいい」
「逆に訊くが、お前はどういう目的でどこへ行こうとしてるんだ?」
私は説明しようとして、言葉を失った。自分でも判らないのだ。確かに答えを手にしている感覚はある。しかしそれは無色透明無味無臭で手触りもなく、描写のしようがない。そんな感じだ。
「そんなの、お前に教える必要はない」
私はとりあえず、男の質問に答えるのを拒否した。
「ま、確かに」
男は同意した。
私は記憶の中をかき回した。記憶喪失にはなっていないらしい。しかし、どうしてここで車を走らせることになったのかだけが思い出せない。最後の記憶は、シドニーの空港を出たところまでだ。いや、本当にそうだったろうか?オーストラリアにこんな砂漠があったろうか。今いるのは実は、アリゾナ辺りなのかもしれない。私が記憶を探るあいだ、男は喋らなかった。これからどうするか、考えていたのかもしれない。
ボンネットの位置にカメラを据え、フロントガラス越しに車内を撮影すれば、映画のようなシーンが撮れただろう。どこまでもそっくりな双子が、互いに違う方向を向いて物思いにふけっている。ガラスの表面を無数の星明かりが滑り去っていく。もちろん実際には、二人は双子ではないし、一人が分裂したわけでもない。そうではなく。
私はあらためて、男と私の関係に意識を向けた。
「なあおい。けっきょくのところ、お前は誰なんだ?」
助手席側の窓から外を眺めていた男は、私の方へ顔を向けた。私は横目でその姿を確認する。
「つまり、私にとってお前はなんなのか、ということだ」
私は重ねて問う。
男は運転席と助手席のあいだにある、ドリンクホルダーの辺りを見つめて難しい顔をしていた。口元をひき結ぶと、我が顔ながらバセットハウンドに似ている。やがて決心が付いたらしく、顔を上げた。
「私は」男の瞳が中心に据えられ、動かなくなる。喋るべき言葉を見失ったときの、あの感覚に襲われているのだ。男の感じているものが生々しく私の中で捉えられる。男の思考もまた、その手にしているのが無色透明無味無臭で手触りさえないものだということに気付いたのだ。
「自分が誰か、判らないんだな?」
男はうなずく。私は急に息苦しさを感じた。心拍数が上がる。男が誰なのか、本人にも判らない。それがなぜだか自分にとっては、目的地が判らないこと以上に恐ろしく感じられたのだ。
「実を言うと、私も自分がどこへ向かっているのか、判らないんだ」
男が私を見る。その目は短時間のうちに濁り、血走っていた。男にとっては、自分が誰だか判らないことよりも恐ろしく感じられるらしかった。
「引き返そうか」
「いや。だめだ」男は強い口調で引き留める。「どうせ、どこへ戻ることになるのかも判らないんだろ?」
男の言葉のとおりだった。
「道、変えられるかな」
「今までに分岐は?」
「ない」
左右に拡がる広大な砂漠が、背景から前景へと浮上してきた。月明かり星明かりの下、猛スピードで後方へ流れていく砂漠はなだらかな隆起のある、のっぺりとした平方でしかない。地平線の彼方まで拡がっている広大な空間だが、今この場では存在しないに等しい。私と男とは決してその空間へ逃げ出すことは出来ないのだから。仮にそちらへ逃げ出したとしても、長くは生きられないだろう。私たちは道の上、自動車の中でしか生きられない。
にぶくて大きな音と振動が起こった。しかし今度はハンドルを取られることもなく、私は僅かな蛇行で影響を吸収すると再び運転を続けた。
「お前、いま」
体をねじって、たったいま跳ね飛ばされた人物の方を向きながら、男は言った。私は黙ってうなずく。
何十メートルも手前から、私は進行方向に一人の男が立っていることに気付いていた。こちらへ向かって手を振っていた。ヘッドライトに陰影を塗りつぶされたその顔が当惑から不安、迷い、恐怖から絶望へと遷移していく過程も鮮明に見えていた。男の外見は、私と全く一緒だった。
「お前と同じようなものだろうから、どのみち無事だろう。なら、わざわざ助けることもないさ」
私の言葉へ、男は曖昧に同意した。
「それよりほら、もう一人向こうに現れたぞ」
真っ直ぐな道のかなり先にまた一人、誰かが立っている。こちらへ向かって手を振っていた。
「さて、ひくかよけるか」
私は呟いた。