五〇人からなる母の一団が夜の街を徘徊している。多様化された母親の集団は、ささやかな力関係をなぞって偏向分布している街灯の光によってその姿の確かさ不確かさを変化させながら、眠りに就く人々の元を訪れる。その侵入を妨げることは決して出来ない。全ての人間がその誕生に先立って、母親の訪れを避けることが出来ないように。
二階にある寝室の窓から長く急な坂道を眺めれば、玄関灯の明かりが届かぬ舗装の中央を一列になった母親たちが歩いている。坂の途中の角から現れる母の列はなかなか終わらず、角の向こうで効率的に増産されているのではないかと思えるほどだった。あるいは、数字のごまかしによる見た目上の水増しで、一人の母につき二人分の外見を備えているのではないか、と。
誰彼の母親に固有な歩き方で進むその姿は見るに耐えないほど有り触れた母で、「母」と聞いて多くの人間が漠然とイメージするものからのみ、構成されているようだった。だからこそ、これだけの集団でありながら誰の母親なのか特定できないのかもしれない。人によって母親のイメージなど違うのだ。そのイメージの濃縮還元された存在など、見る人によって如何様にも変化する。
私は飽きて目を逸らす。しかしそれでも母たちが向かいの家に入って行く気配を感じた。そのまま長い時間が経つ。
見えていないにもかかわらず、最後の一人が振り返って御近所の目を窺い、それからドアの縁へ手を掛け扉を閉めたことまが判った。どれほど増えていようとも、50人は50人なのだ。たとえ100人になろうとも。
やがて向い屋から乳甘い空気の腐緩が伝わってくる。そのせいでこめかみの辺がふきぶきと痛む。歯茎から歯が浮き上がるような感触に、私は思わず唇を噛んだ。御食初めを迎える前に生えてしまった歯のような居たたまれなさに、もう寝ようと決意する。
部屋の明かりを消してベッドに横になる。頭を動かして枕の位置を調節すると目を閉じた。と、廊下を歩く足音々が聞こえる。やがて、最初の一人が部屋に入ってくる。後ろの方はまだ向いの家に居るのだろう。
数が増えるに従って、部屋の温度が上がる。母の口元へ流れ入る酸素の量が増え、空気へ混入する二酸化炭素が増え、私の取り分は重みのある気体へと置き換わっていく。
息苦しさを緩和するために窓を開けたいのだが、ベッドと窓のあいだには間違いなく大勢の母が詰まっており、辿り着くことはできないだろう。100人を超える50人からなる母の集団が部屋へ侵入しつつあるのだ。
賢い主婦の節約術によって一人分の空間を数人で使うことにより、部屋にはまだ母親の入る余地があるようだった。
いつの間にか廊下を歩く音がやんでいた。目を閉じていて見えないが、とうとう全母が部屋へと集まったらしい。部屋の気圧は飛躍的に変化し、私は浅い呼吸を繰り返す。乳甘い空気が濃さを増す。カーテンの隙間から漏れ入る光に母親たちの双眸は輝いているだろう。
やがて、母親たちが寝物語を始めた。口々に語られる即興の物語には子供がお気に入りのキャラクターが散りばめられ、何千回と語られた昔話は今夜も同じように語られる。
鬼は死に、瘤は取れ、狸は水没する。
統制の取れない寝物語の重奏に部屋が蒸す。近所の迷惑にならぬよう、母たちは小さな声でそれらを囁く。同時に語られるせいで寝物語は幾重にも重なり、融け合い、一つ一つは弁別できなくなっている。
私は寝ることもできずに、声が部屋へと堆積していくのを感じていた。しかし寝かしつけるための物語が寝物語である以上、結末まで語られることがあってはならない。
かくして私が寝られない限り物語は結末の手前を無限に迂回し、終了は無期限で遅延される。
母親たちが一斉にベッドの縁へ手を突いた。次いで布団の端をまくる。寝物語に不可欠な、添い寝をするつもりなのだろう。母親は子供の布団へ勝手に入ることを許されている数少ない存在だ。だから、100人の50人からなる母親の集団であっても、母親である以上は子供の布団へ入ることができる。もし入ることができなければ、それは母ではないことになってしまうからだ。
布団の中は少しずつ、母親たちで占められていく。私の取り分は減っていった。