目の前にはぐったりと打ちのめされたような闇が広がっている。降りしきる雨は強さを増し、今では白濁した細い棒が落ちてくるかのようだ。私は古ぼけた建物の庇の下で、雨宿りをしている。体重を足から足へ掛け替えるたび、ソールからぬくい水が染み出してくる。濡れた服が皮膚と癒着しそうで、気持が悪い。
頭上では、そこだけ取り替えたばかりらしいむき出しの蛍光灯が輝いていて、天井から吊された「よろず雑貨」という錆だらけのホーロー看板を照らしている。それを除けば見渡す限りに光源はない。その蛍光灯の明かりも雨に散らされ、数メートル先を照らせずにいる。
私は背後の引き戸へもたれかかった。引き戸の上半分にはガラスが嵌まっているが、薄いカーテンが引かれていてその奥は見えない。誰もいないのだろう。中からは何の物音も聞こえてこない。
他にすることもないので、私は前方の暗がりを漫然と眺めていた。そうするうちに周囲は空間感を失い、やがて黒く均一な壁が迫ってきているように感じられだした。私はだんだん息苦しくなってきた。
不意に黒壁が意識の中で空間へ戻る。何かが光の届くすぐ外をよぎったような気がしたのだ。私はそちらへ目を凝らした。もう一度、何かが垣間見える。一瞬の記憶を反芻してみると、濡れそぼった毛むくじゃらの脚が見えたようだ。犬だろうか。
「しっ」
私は追い払おうとして声を出す。しかし、雨音に遮られて向こうまでは届かなかったかもしれない。再び、それは闇に埋没する境界面上を掠めた。着物の裾のような気がした。暗い色合いの着物から覗く、緋色の腰巻き。だが、誰もこちらへ来ない。
と、また。今度は「人体の不思議展」の展示物めいたものが見えたようだった。中途半端に剥かれたまま萎びて垂れ下がった皮膚や、白みがかった筋繊維。しかし恐怖を感じるよりも早く、雨を弾く鰐の尾が視界の端に入り、消える。苔むした鱗の残像が記憶の底を刺激する。私は確かに以前、それを目にしたことがある。そう考えてみると、他のものも一つ一つに見覚えのあるような気がしてくる。
もう少しで手繰れそうになる記憶の切れ端が次々と浮かんでくる。塗装の剥げた馬の遊具、産毛の生えた女の手の甲、脚の折れた百葉箱、ねじ切れた干し柿、西日に染まるソフトクリーム。記憶の中の映像と、網膜に残る映像との境目が判然としなくなる。それどころか映像は混ざり合い、白や黄色や青や赤のもつれた光となって、目の前を流れていく。それは今にも一つの像を結びそうになるが、寸前でバラバラの色合いへ戻ってしまう。その度になぜだか私は安堵した。